本物みたい 大きな コスース 18,000円



 商店街に時代錯誤な感じの玩具店があって、そこのショーウィンドウに並んだおもちゃにいちいち付けられたキャプションが気になっていて、いつも前を通るたびに「この変な感じはなんなんだろうな」と立ち止まって覗き込んでしまう。おせっかいというか変な方向につきすすんだ親切心というか、こういう感じの、たぶんお年寄りが趣味でやってるようなおもちゃ屋をたまに見かけるし、珍しくもないとは思うんだけど。
 そもそも商品が如何に良い感じの質感や量感をそなえているかを「百聞は一見にしかず」で示すためのショーウィンドウであって、そこに「大きな犬」とか「孔雀」とか「花」とか書かれたキャプションが普通に一緒に収まっているというのはとても変だ。最初に見たときからジョセフ・コスースの『1つおよび3つの椅子』の想像が頭を離れないのだけれど、学生時代、実際に美術館でコスースのそれを見た時には正直どうでも良かったのが*1、こうして場末の商店街の寂れたおもちゃ屋で突然出くわすと「うーんなんなんだろうな、、」と気になるし、天然物の迫力や凄みみたいなのを感じる。
 ここでは目が認識する犬の形とキャプションの言葉が協調しあい「犬のぬいぐるみ」が揺るぎないものを目指すということはなく、なにかおたがいに意味を打ち消し合って「犬に見えるけど本当はぜんぜん犬じゃねえし、売ってもいねえよ、バカ!」とでも言われているように感じる。こちらの世界とガラス一枚で隔てられたショーウィンドウの中は真空状態で、犬のような形の物体のイメージと「大きな犬」という言葉の意味(あるいはシニフィエシニフィアンが)が重さを失い、どこにも落ち着くことなく漂っている。

 神社の境内の入口の高い段差(框?)を渡っていく人々の、着物の裾を絡げる動作の連続を呆然と眺めるうち、そこにいつの間にか目には見えない境界がある感じがして、清と穢だか、晴と褻だか分からないが、何かをガラスのような一枚が隔てているように見えた。ショーウィンドウの内と外、神殿と俗界、美術館と日常、夢と現実。境界のガラスは光の強さや角度の具合でそれを眺める人の姿を反射する。

*1:作者は「設計図」で設置方法を指示するだけなので、これか実物か、、という感慨も特にない。そういうやり方だから当たり前なのだけれど


 昼過ぎに出かけると景色が黄色くて驚く。通りの果てまで景色が不思議な光の乱反射の中に均質に居並び、なにか全体的に近くに感じる。僕はまたなんとなく森の方へ向かっていて、ひょっとして森に入ったら多少は空気もきれいかな?と期待したが全然そんなことはなく、森に入ろうがどこまで行っても黄ばんだ光が景色をのっぺりさせていた。空気遠近法みたいな効果でふだん遠景が青みを帯びるのに無意識に慣れているせいで、景色が黄色っぽくなると遠近感がおかしくなったりするんだろうか?
 夕方に冷え込む。夜に手羽先と大根のカレー。夜更けにたばこを買いに出るとものすごく寒い。すこし遠回りして歩いている間だけ、ぼんやりと311のことを考えていると、通り魔事件の路地に出る。すぐそばで刺されて亡くなった一人の他人のこと、遠くで亡くなった大勢の他人のこと、生きていて今こうして夜の路地をぶらぶら歩いている自分のこと。やはり僕はそれがどういうことなのか分かっていない。あれから二年が経って世の中もだいぶ変わったような(噂を聞くような)気がするんだけど、僕は相変わらずぜんぜん分かっていないし変わっていない。昼間の陽気と黄色い光がうそのように踏切は冷たく静まりかえり、月明りを反射するレールの摩擦面がずっと遠くまで、向き合う刃物のように鋭く光り続いている。(3/10)


 商店を出て左手前の路上駐車の車をよけ信号待ちの右手奥の車の方を見ながら渡ろうと自転車を踏み込むと、路上駐車の車の影から走って来た黒い車に衝突される。そのあと、突っ込んでくる車内からの映像となり、袋をさげて自転車に乗ったおっさんがふらふら現れ猛スピードで接近する。弛緩した表情がみるみるこわばっていくのが鮮明に見える。自分視点と運転手視点の映像が交互に何度も流れ、ずっとそれを見比べている。鉄の塊が一瞬で飛び込んでくる自分視点より、運転手視点の方がすごく怖い。

 へ先生がむかし南阿佐ヶ谷近辺に住んでいたという話をみる。それで僕も、学生当時住んでいた下宿から南阿佐ヶ谷の何も無い殺風景なアパートまでの1kmほどの道のりを、毎日のように通っていた頃のことを思いだした。アパートの家主は新宿の焼肉屋でアルバイトをしていて、留守のことも多かった。たまにバイト先の厨房の韓国人が作った賄い飯というのを持ち帰るので「これうめえね」とか言って食べていた。ほかに家主とどんな話をしていたのかと考えてみてもほとんど思い出せず、ただ「コチュジャン、テンメンジャン、ヤンニョムジャン」と家主が唱えていた呪文のような断片だけが散らばっている。そのバイト先のふちのかけた茶碗や丼を貰ってきてはアパートでの食事にも使っていた。いつかは自分が気に入った器や美しいと思った器を買って、食事をするものなのだろうなと漠然と思ってきたけれど、未だにふちが欠けたりヒビが入ったそれらを普通に使っている自分はなんなんだろう、ものすごくズボラなんだろうなと思う。


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サイレン


 絵コンテのような用紙の枠線の中央に小さなモノクロ写真が貼ってあって、大きな余白や枠の外に鉛筆で殴り書きがしてある。写真はたぶん○○○の中のやつで、陰になって表情の見えない三人の男。鉛筆で書いてあるのは何かを聴き取ったメモのようで、「月の裏であいましょうのオルガンは○○○○○さんじゃないとああいう風には弾けない」みたいなことが書いてあった気がする。何枚もクリップで留めてある設計図のようなその紙束をばさばさめくって眺めていると救急車の音が聴こえてきて、「ああまた夢か」と思った段階からゆっくり覚醒し、混濁した意識のプールの底から水面に浮上すると布団の中で目を閉じている。また外は真夜中の気配で、サイレンは一ブロックほど隔てた近所で止まる。この前もこうして夢から醒めたし、今年に入って何度も真夜中や未明に救急車が近所で止まる音を聴いている。なんとなくいつも同じ場所のような気もする。サイレンが止まった方向にずっと耳を澄ますが、ただはるか遠く大気が低く震動するだけで静まりかえったまま何も聴こえてこない。「容態が回復したのか、いたずらとかなのかなあ」と考えていると30分ほどして忘れた頃に突然またサイレンが鳴り響き、走り去るのが聴こえる。「ずいぶん長かったけど、これでも救急というのかな、、」と寝返りをうち薄目を開けると暗い室内がぼんやりと見える。開け放したドアからオレンジ色の玄関灯が差し込み、何人かがばたばた行き来する影が壁に伸びる。天井だと思っていたのは床の上のベッドで、誰かが眠る布団のふくらみの上を人影が慌ただしく横切るが、音はぜんぜん聴こえないこないので、まだ夢をみているんだなと目を閉じる。(3/8)

かわいいすべり台


 「久しぶりに、サッポロ一番の塩ラーメンを食べたらうまかったよ」と言うと「カップか袋か」と返ってきたので「カップのやつ」と応えると「袋のやつじゃないと麺の感じがどうのこうの」という話が始まる。いろいろ込み入った話をした翌日で、こちらとしてはふわふわした気分で何を口にしたらよいのかワケも分からないまま「サッポロ一番の塩ラーメンがどうの」と切り出してしまったので、そのままサッポロ一番塩ラーメンの話が普通に続いたことに、拍子抜けというか、果たしてこれでいいのだろうかという違和感ばかりがざらざらと、中まで砂まみれの靴で浜辺を歩いているような気分だった。

 現代詩や宣伝コピーなど、高密度高比重高圧度の言葉の世界と、「うう」とか「ああ」とか「すんませんまたよろしくお願します」だとか、いわゆる日常の言葉の世界の間で「小説(の方法)」は浸透膜のような役割をはたし、読者を両方の世界に往来させる。それでまた両方の世界の住人から感謝されたり「よけいなお世話だ」とか文句を言われたり云々、などというある作家の話を思い出し、この話の「小説」のところを「ポップミュージック」で置き換えたらどんなもんか?と呆然と考えていた。
 音楽が登って降りる階段のような構造物だと想像してみる。現代音楽とかクラシックとかの非軽音楽は、頂上まで登るとやたらと見晴らしのいい丘の上の神社に続くような石段で、一段一段が高く、それにへばりついて登って降りて帰ってくるまで1時間とか2時間とか平気でかかる。もともと時間も金も有り余った貴族がリスナーで作らせていた音楽なのだから、平気でそんくらいはかかる。ポップスの方は頂上まで登ってもせいぜい数mほどの規模で、上り下りに3分ほど。頂上からの眺めも地上とあんまり変わらない。そう考えると一時やたらと空気のように軽く透明で抵抗感のないやつを躍起になって選り好んで聴いていたのは、一段一段の段差がなるべく少ない、つるっとしたスロープみたいなもの、一気に駆け上って滑って降りてこれるような可愛らしい滑り台が欲しかっただけのように思える。頂上からの眺めは別にどうでも良くて、砂場やら投げ捨てられた玩具やらを地上とは少し違う角度で眺めるだけで満足だった。どのくらい段差がなくて、つるっとしているかということのほうが重大事だった。*1


 そんなことを徒然と思いながらトンネルの出口のほうに見えた景色は、オガーさんのライブ映像の最前列で、演奏したり暴れたりするオガーさんと至近の距離で煙草を吸いながら笑顔で身体を揺らし頭を振るショートヘアの女性のことだった。だいぶ前に観た時もその女性のことばかり観てしまったし、今回何気なく踏んでみたライブ映像でもその女性のことが気になった(それで同じ動画なんだと気づいた)。僕はその女性について(最初に観たときからずっと)なにか言いたいことがあるような気がするのだけれど、どうしても良い言葉がみつからない。手持ちを見回してみてもせいぜい「多部未華子」くらいで、オガーさんのような「豆大福」を持っていない。ぷらぷら歩いて出口に着くまでに何かしら思いつくかなと期待したけど全然ダメだったので、僕はまたトンネルの暗がりの方へ来た道を引き返すことにした。(3/7)

*1:わざわざ自分で選んだ音楽を自分に聴かせるということ自体がなくなったので過去形にしたけれど、たぶん今でもそういう感覚は変わっていない。

白い夜、連続豆大福

 夜が暗いのはただ星が遠いからで、途方も無い未来には全方位の星の光が届き、夜空は真っ白に輝くという。星の光が届く前に、地球は膨張した太陽に飲込まれたり、なんやかんやであと50億年ほどで惑星自体の寿命を終える。星の光が他の星に届くより、はるかに星の寿命は短い。今こうして独りものくるいに向かわせる夜の暗黒の正体は途方も無い(星と星の)距離なのだ、とかいう想像がどうのこうのする。

 映画「連続射殺魔」を観ていて*1、この若者と(同じ北海道出身の)オガーさんで、何が同じで何が違うのかと考えていたら途中で寝ていた。オガーさんは心優しい連続射殺魔で、盗んだ銃で連続射殺するかわりに「いわゆるクラブミュージック的な解釈でシティポップを愛好するオシャレな輩の顔に豆大福を押し付ける」*2のだと想像してみる。オガーさんは誰一人傷つけない。豆大福ファンや豆大福を作っている人は傷つくだろうか? 取り立ててファンでも、豆大福を作ったこともない僕にはわからないけれど、ここで豆大福を押し付ける方と押し付けられる方の気分はすごく分かる気がする。ともかく、この若者は銃を選び、オガーさんは豆大福を選ぶ。
 そういえば、数年前にヤンゴ先生のラジオで「ひょっとしてオガーさんもこのラジオ聴いてるんですか?」*3と質問したら「オガアさん?*4 たぶん聴いてねぇですよ」と一瞬勘違いされていたのを急に思いだす。二人の人間が同時にオガーさんと自分のお母さんを想像したのが、今思えばなんだか絶妙な感じがした。(3/5)

*1:http://www.youtube.com/watch?v=swRSsBmUVKQ

*2:オガーさんの作文より

*3:たまたま話題がかぶったかなんかで

*4:お母さん:フクスマ弁

グッドモーニングたべみかこ

 地元のもうつぶれたツケのきく本屋で「そうそう」と富士日記を探している。平積みコーナーに箱に5冊入りの文庫本セットなどが置いてあり、中を開けてみても全然知らないタイトルでへえと思う。そのあと、ゆりこコーナーを見ても全然知らないタイトルが数冊あるだけで諦めて目が覚める。

 最近の個人的な多部未華子と言えば、ひとつ気づいたことがあって。なにかと気になることがあるといちいち立ち止まって考えるんだけど解決しないので、とりあえず「〜〜っぽいもの」というラベルを貼って頭の中のゴミ置き場にどんどんほっぽっていくんだけど、観念の多部未華子もそういうラベルとかインデックスの一種で、他の人が「かわいい」とか「めんどくせえ」とか「うぜえ」とか「トカトントン」などと発してひとまず思考停止して次に取りかかるのと同様に、僕は気になった何かにつぎつぎ多部未華子ラベルを貼って、頭の中の多部未華子置き場にほっぽり投げてる感じなんだ。そうやってひとまず投げておいて後で集まった多部未華子アーカイブスを眺め渡して気づくことがあればいいなと、それがクルクルパーのやり方なのだなと思ったんだけど、やはりただのゴミが捨てられない人みたいでもあり、やってみてもクルクルパーの頭が多部未華子のゴミ屋敷風になるだけだ。








 そのように思ったのは、Allee Willisのたぶん"goodmorning captain"という曲が、ここしばらく頭の中をぐるぐるして止まらなくて、いったいなんなんだろうなあと考えてみても全然分からず「そういえばなんかこれ多部未華子っぽいな〜」と思ったからで、ああ多部未華子ってラベルだったのかと。そんでその"goodmorning captain"の動画を貼ってこの作文を書こうと思ったんだけど、てっきり同アルバムから投稿していたと思っていたのはぜんぜん雰囲気の違う曲で、これはこれでしみじみと良い曲で、僕みたいなクルクルパーが「良い曲」などと感じるときは、たいていそれが本当に自分の真心の感覚と呼べるものなのか、ただ他人が自分にそう言わせているだけなのかで喧嘩を始めるんだけど、これはそういう感じにもならずに「もう終わりかー。もっともっと」と忘我のリピート再生となるくらいだから、多分かなり好きではあるんだけど、やはり別に多部未華子っぽくはない。"goodmorning captain"の方は、こうもっとあっけらかんとしてわけの分からない感じの、違うスケールの良い曲に感じる。*1


 昼過ぎからまた森へ。曇っていて寒く、たまに小雨。いつものベンチに向かうと珍しく先に誰か座っていて、この前の巨大なロスコの絵のまえで裸の文庫本を捧げ持って読んでいる、どんな気持ちなんだか気になる。夕方にさびしい商店街で買い物。そこに来るたび、いつだったか無人の通りにサンシャインスーパーマンのインストがかかっていた大雨の日のヤケクソな情景を思い出す。「雪の宿」という溶かした砂糖?みたいな白い甘いやつがついた煎餅を迷ったすえ、先にカゴに入れていた落花生飴を棚に戻して買うなど。子供のころ婆さんにもらって食べたなあという菓子類が壁一面にこれでもかと並んでいて安い。近所の老人御用達のお店なんだろう。夜に牛スジカレー。そのあとあっさり眠くなる。(3/3)


*1:エステル・レヴィットで、ぜんぜん勘違いだった。。記憶がもうダメ 4/9追記