グッドモーニングたべみかこ

 地元のもうつぶれたツケのきく本屋で「そうそう」と富士日記を探している。平積みコーナーに箱に5冊入りの文庫本セットなどが置いてあり、中を開けてみても全然知らないタイトルでへえと思う。そのあと、ゆりこコーナーを見ても全然知らないタイトルが数冊あるだけで諦めて目が覚める。

 最近の個人的な多部未華子と言えば、ひとつ気づいたことがあって。なにかと気になることがあるといちいち立ち止まって考えるんだけど解決しないので、とりあえず「〜〜っぽいもの」というラベルを貼って頭の中のゴミ置き場にどんどんほっぽっていくんだけど、観念の多部未華子もそういうラベルとかインデックスの一種で、他の人が「かわいい」とか「めんどくせえ」とか「うぜえ」とか「トカトントン」などと発してひとまず思考停止して次に取りかかるのと同様に、僕は気になった何かにつぎつぎ多部未華子ラベルを貼って、頭の中の多部未華子置き場にほっぽり投げてる感じなんだ。そうやってひとまず投げておいて後で集まった多部未華子アーカイブスを眺め渡して気づくことがあればいいなと、それがクルクルパーのやり方なのだなと思ったんだけど、やはりただのゴミが捨てられない人みたいでもあり、やってみてもクルクルパーの頭が多部未華子のゴミ屋敷風になるだけだ。








 そのように思ったのは、Allee Willisのたぶん"goodmorning captain"という曲が、ここしばらく頭の中をぐるぐるして止まらなくて、いったいなんなんだろうなあと考えてみても全然分からず「そういえばなんかこれ多部未華子っぽいな〜」と思ったからで、ああ多部未華子ってラベルだったのかと。そんでその"goodmorning captain"の動画を貼ってこの作文を書こうと思ったんだけど、てっきり同アルバムから投稿していたと思っていたのはぜんぜん雰囲気の違う曲で、これはこれでしみじみと良い曲で、僕みたいなクルクルパーが「良い曲」などと感じるときは、たいていそれが本当に自分の真心の感覚と呼べるものなのか、ただ他人が自分にそう言わせているだけなのかで喧嘩を始めるんだけど、これはそういう感じにもならずに「もう終わりかー。もっともっと」と忘我のリピート再生となるくらいだから、多分かなり好きではあるんだけど、やはり別に多部未華子っぽくはない。"goodmorning captain"の方は、こうもっとあっけらかんとしてわけの分からない感じの、違うスケールの良い曲に感じる。*1


 昼過ぎからまた森へ。曇っていて寒く、たまに小雨。いつものベンチに向かうと珍しく先に誰か座っていて、この前の巨大なロスコの絵のまえで裸の文庫本を捧げ持って読んでいる、どんな気持ちなんだか気になる。夕方にさびしい商店街で買い物。そこに来るたび、いつだったか無人の通りにサンシャインスーパーマンのインストがかかっていた大雨の日のヤケクソな情景を思い出す。「雪の宿」という溶かした砂糖?みたいな白い甘いやつがついた煎餅を迷ったすえ、先にカゴに入れていた落花生飴を棚に戻して買うなど。子供のころ婆さんにもらって食べたなあという菓子類が壁一面にこれでもかと並んでいて安い。近所の老人御用達のお店なんだろう。夜に牛スジカレー。そのあとあっさり眠くなる。(3/3)


*1:エステル・レヴィットで、ぜんぜん勘違いだった。。記憶がもうダメ 4/9追記