●高架脇の通りにあるコンビニ。それが自分たちのクラスの学園祭の出し物(模擬店)らしい。店の前に学校の机と椅子のセットが出してあり、椅子の背もたれに足の先をかけ、机にうつ伏せになってぶらぶらとバランスをとり、暇を持て余している。店の前は人通りが盛んで、「もっとゆっくりたむろ出来るスペースでも作ればよかったのにね」と山本君と話している。道のまん中に人の流れに逆らうように佇む男がいて、クリス・レインボウがどうのこうのと断片的に聴こえたので、その独り言に耳を澄ましてみると、延々とわけの分からない話をしていて気違いだと思う。(2/27)

●城東地区。平らな埋め立て地のマス目のような街を大男が自転車で走っている。視界に色が無く陰影だけの影絵のようで、黒づくめの男はオガーさんに似ている。区画のマス目をなぞるように縦横に行ったり来たりしてずっと走っている。街中で歩行者としてそれを眺めているのと同時に、上から俯瞰で眺めている感覚もあって、なにをしているのかな?と思って観察していると、男の坊主頭だった髪がだんだん伸び、角を曲がって現れると前は角刈りで後ろは長髪(プロレスラーっぽい)になっていて、おおすげえ!と思う。街のマス目のどこかから救急車の音が聴こえてきて、少しずつ目覚めるとその音は現実の音だった。まだ真夜中で、外は大雨がふっている。

●とある脳科学の先生によると、視覚が捉えるものには筋書きがなくて、筋書きは耳が聴くものだという(筋書きに寄った知恵や文化、18cロマン主義)。だからこそ「絵解き」というのが成り立つのだそう。とうぜん夢の景色は実際に感覚器を通して捉えているわけではなく「某かの感覚器が捉えたようなもの」として錯覚した状態で脳に直接入力される。では映像ではなく台本を読んでいるように入ってくる夢は耳で聴いているように錯覚しているのか?と考えるとそれもまた違う感じで、「音を聴く」という台本的な入力を除くと夢の中でほぼ音はしない。逆に音がした時は音色なりメロディなりとても印象に残る。(3/2)

●(自分のようなクルクルパーが試しに)レタスさんみたいな気分で書いていると、心の中のどうでもいいような澱がどんどん流れ出してくる。流れてきた澱を見て、それが元々の岸に積もって(気分の)流れの形成に作用していたんだと自覚させられる。それはふだん呆然と叙事とか叙情とかを意識したりするのと全然違う感じ。流れているところだけを書く叙情。岸に澱が留まり流れの形に作用することを書くのは、叙情のような叙事のような。夢を淡々と記録したものは、叙情なのか叙事なのか。

坂本冬美の顔を初めてしげしげと眺めて、またしても多部未華子を思い出す。どちらも目つきが恨めしげに見える時がある。

マンU香川のハットトリックを同時刻に観る。それで数日間魂が抜けてどうのという人の話を読んで「玉蹴り」と「魂消る」はちょっと似てんなと思う。

朝の浮き輪

 未明。便所で力んでいる最中、気づくとなぜかとてもさわやかで優しい気分になっていたんだ。そして気づいたらレタスさんみたいな気分になっていた。レタスさんという方がいて、こういう喋り方(書き方)をするんだ。今朝の僕はレタスさんっぽい気分なので、そういうふうに書いている。そして途中でめんどくさくなって放棄していたオガーさんに関する作文のための序文を書いてみようと思ったんだ。今日はレタスさんみたいな気分だから、そういうおおらかで静かなような気持ちになったんだ。傍らには冷たくなったインスタントのコーヒーがある。泥水のようなそれを一口飲むたび、いま僕はレタスさんみたいな気分でいるけど、しょせんは偽物で、レタスさんでも誰でもない、ただの一人のクルクルパーなんだと思い出すんだ。








 歌う坂本冬美の眼鏡の丸いレンズを視て、僕は何かを思い出そうとしていた。同じセーラー服でもHISの時と違うのはこの眼鏡なんだ。(このコスプレを提案したのが清志郎なのか誰なのか知らないけれど、きっと言い出した張本人も息を飲んだんじゃないか?というくらいに)狙いより遥かにもっさりして、得体の知れない雰囲気を発散している。僕はこのカバー曲の芸術性や表現性、ポップスの技術みたいなことは分からないからあれこれ言えないのだけれど、歌う坂本冬美の眼鏡の丸いレンズ周辺に漂うわけの分からない雰囲気こそがアウラで、「芸術の一回性」という言い方にもピンとくるものがあったんだ。根拠はいっさい無いんだ。
 他のメンバーはコスプレっぽいけど坂本冬美のは「コスチュームプレイ」という言葉で片付けていいものなのか、僕には分からないんだ。ここで演出された懐かしい昭和(コスプレによる懐メロカバー)と、この映像自体がすでに発散している懐かしさ。この絵は、どこまでが絵でどこからが額か分からないような巧妙な多層構造をしていて、僕の目と耳はしっくりくるピントを求めてさまよう。そしてわけが分からなくなって落ち着いた先が坂本冬美の(HISの時とは違う)眼鏡の丸いレンズだったんだ。

 そうして僕が坂本冬美の眼鏡の丸いレンズに流れ着いた頃、いつだかオガーさんが「ピチカートファイヴは歌詞の何もないところがいいですよね。好きですよ」と言っていたのを思い出していたんだ。その時の僕は「歌詞について書かれた歌詞、歌についての歌っている歌、自己言及的であるみたいなことを言っているのかな?」とだいぶ勝手に解釈してしまっていて、「好きですよ」もオガーさん独特の言い回しで、本当に好きなんだとは全然思っていなかった。だけど近頃オガーさんが貼っているユーチューブの歌を聴いてみると、うまく言えないけどピチカートっぽい感じのするものがあって、嗚呼あの時の「好きですよ」は、僕が考えていたよりずっと率直な言葉だったのかなあと思ったんだ。

 ここまでが、僕がレタスさんみたいな気分で考えたことなんだ。ここから先は、レタスさんみたいな気分の僕ではなくて、ただのクルクルパーの僕がオガーさんの作文を読んで感じたことを書いてみたやつなんだ。以前、オガーさんとオガーさんの音楽活動について少しだけお話しする機会があったのだけれど、だいぶぼんやりしたまま話してしまっていた気がするんだ。あの時も「オガーさんの音楽の坂本冬美の眼鏡の丸いレンズ」という視点が必要だった気がするし、きっと、さまようピントがつかむ浮き輪が必要だったんだ。




続きを読む

ドアノブ

 早朝、床に水をまき散らかすような音で目覚める。隣室へ続くドアを開けるとすぐ吐瀉物があって面食らう。これは今までない目覚め方だなー。酒飲みとか酒飲みと暮らしている人にはありふれた光景なんだろか、、などと思いつつ、ぼそぼそ文句を言いながらそこを大股で避けて洗面所まで行こうと、体重をあずけるようにドアノブに手をかける、すると今度はドアノブがまるごとすっぽ抜けた。「嗚呼しちめんどくせえことになった」と吐瀉物の掃除が終わるのを待ってからドアノブを元通りにくっつけようとするが全然だめで、押しても引いても回しても「俺はもうドアノブじゃなくてただのノブだから」とでも言わんばかりにとりつくしまもなく拒絶される。しばらく放置してみるが、そこは出入り以外にも換気や室温調整などで頻繁に開閉するドアなので、「あーこれからどうするかな、めんどくせえな〜ドアノブって大切なんだな、、」と寝ぼけたまま煙草。気を取り直してインターネットで検索してみる。「ドアノブ 修理」。するとなんやかんやいっぱい出てきて、一個ずつ見ていくが該当するドアノブになかなか当たらない。「なんだドアノブってこんなにいろいろあんのかよ、しちめんどくせえな」とまたうんざりしつつ、どうにかそれらしき型の修理方法を見つける。ドアノブ全体ではなく、台座部分だけを時計回りに回すとネジのように固定される仕組みのようで、そのとおりに試すとウソみたいに簡単に直る。むしろ以前よりがっちりとドアに固定され、ノブを握った手応えも鮮やかで実に心強い。
 インターネットって便利だなあ、修理方法(というか体験談)を書いてくれていた人ありがとう。俺なんか一つも世の役に立つようなこと書いてねえのにほんとスンマセン、、という気分で参考写真のリンク元らしきブログを辿って読むと、そこにはドアノブが外れて数日間困り続ける人の様子が淡々と綴られていた。途中で諦めてはまたあれこれやってのくり返し。ドアにノブがなくて微妙に困る気分が今ははっきりと共感でき、俺も一歩間違えればこうなってたなと、ほっとする。
 昼過ぎに出かける。総菜パンを買い、森をぬけた広場のベンチで食べる。よく晴れて景色が妙に明るく光っている。パンを噛む間も、喉をとおり腹の底まで落ちる間もずっと耳元で風が鳴っていて、いつもどのくらい噛んで飲みこみ次の一口に取りかかっていたか、いろいろおぼつかなくなる。明るくて風の強いところで何かを食べると子供の頃にもどったような気分がする。それからまた森を歩く。暗いところも見えないし明るすぎるところも見えない、光の強さの丁度よいごく一部しか目には見えないという当たり前のことがなぜだかしきりに意識される。自分が歩いて観ている森の大部分は勝手な想像やら類推で補っている。だからたぶん人それぞれの想像力や気分によって同じ森でも大きさや形が変わる。
 夕方にスーパーで材料を買い、夜は牛スジのシチューにして作ってたべる。(2/24)

雪とロスコと鶴の女


 早朝。食堂を出て森へ寄る。いつものベンチで煙草をすっていると陰気な曇り空から雪がちらつく。冷えて人気がない。遠くの枯木と常緑樹と陰が折り重なった暗い緑灰色と、枯れた芝生の象牙色。高い枯枝が空と接するきわが揺れてロスコの矩形のボケた輪郭のようで、その巨大な絵の中に時おり小さい人影が現れては消える。鳥の声と風の音、砂利を踏む音。この雪は遠くから風が飛ばしてくるように見える。いつか同じ森でみた降雪が方眼紙のようだったことを思いだすが、今日は違う。まつ毛やくちびるの上で雪が溶ける数秒間に、枯葉がちょうど木々の間くらいを移動したとか、雀が何回啼いて、カラスが何回啼いただとか、そんなことばかり数えて、水面の波紋が静まり像が現れるのをじっと待っている。とても静かで寒いけれど、誰も思い出さない。あきらめて煙草を消しふりかえると、ちょうど若い痩せぎす女の黒いカーデガンが鶴のように折れ曲がり枯葉を拾った。(2/19)


続きを読む

わくわく動物ランド


 昼すぎ。なんだかんだでまた神社の森へ出かける。ものすごく寒い。思えば澱んだ空気が漂う地所ばかり巡っていた頃と極端に傾向が変わった(ただ、寒いから遠くに出るのがめんどくさいという理由)。忌み地と神社、それぞれで感じる静けさの中身について注意し比較するように歩いてみるけれど、いまひとつ分からない。全然違うんだけど、それの原因がなんなのか分からない。高地と低地、乾燥と湿潤、弥生と縄文的なことなんだろうか。
 池の鴨を眺めていて、雄鴨の首の鮮やかな緑色が雌を魅きつけるのは単に綺麗とかいう理由ではなく、それだけ目立っていても補食されず生き残っている→強い雄の証明との仕組みなのだという話を聞く。出所を尋ねてみると「わくわく動物ランド」と即答し堂々としたものである。大根泥棒と話していると「わくわく動物ランド」出典の蘊蓄話がやたらと多く、この人の頭を割った断面の円グラフの何割かは「わくわく動物ランド」なんじゃないかと恐ろしくなる。平成の世となってもはや四半世紀というのに、なにもそこまで自信満々で即答しなくてもいいんじゃないかと余計な心配もする。自分も人のことを言えたもんじゃないけれど、今どき「わくわく動物ランド」に全幅の信頼を寄せるのはどうなのか。

 森の中の休憩所に初めて立ち寄り、おでんを食べる。「がんもどき」は雁の肉を模した精進料理が由来らしいが、なんで鴨じゃなくて雁なのか?みたいな例によって埒の飽かない話となる。(2/16)



 なにかの編集盤を聴いている。昔の子供の唱歌集。曲目を見ると日本の曲が2曲、そのあとに韓国の曲が1曲という構成で進んでいく。かわいらしい子供の声でいいなと思ったり、ひょうきんな所ではニヤニヤする。なにかの作戦本部かアジトのよう暗い部屋で、古い紙に木炭で線を引いている。木炭の先はボソボソして線はささくれ立ち、微細な粉を散らす。あらかじめある点を結んでいくようにゆるい曲線を引いていき、そこを何かが進んでいくらしい。子供の声はずっと続いていて、それを聴きながら僕は黙々と線をひく。とつぜん部屋の景色がめちゃくちゃになり、終わりが近づいてるのを感じる。映像は筆先にフォーカスし、倍速にしたように線はものすごいスピードで進み、めちゃくちゃに紙を一周したところでプツンと夢から覚めた。(2/17)

藤岡弘とマイスターエックハルト

 呆然とマイスター・エックハルトの言葉というのをあれこれ拾い読むうち、いつの間に藤岡弘みたいな気分になっていた。いつだかiydさんが貼っていた「珈琲道」の動画を探し、今一度心を落ち着けて眺めてみる。映像の一時停止と不可解な間、それを破る「はぁっ!」のかけ声。もろもろの思考(時間、過去と未来)、映像を眺める私の気持ち(記憶と期待)が覆い隠していた「現在」のようなもの、新鮮な景色が突然目の前に広がる(ような気になる)。なにがなんかだかワケも分からないまま、私みたいな精神薄弱のクルクルパーをそういう気分にしてしまうところが藤岡弘のすごさだ。そしてこの観客の反応(不安そうな目を泳がせ、またある者は凝視し、それぞれが宙吊りの気持ちでうなづいてみせる)。あの客席には私がいる、というくらいに感情移入してしまう。




「時間が永遠の内へと入るとき、そこで一切の時間が終わりを告げる。
そこには以前も以後もない。
そこにあるものは、すべて現なるものであり、新たなるものである。
かつて生起したものも、これから生起するものも、
あなたはここではひとつの現なる直観の内でつかむのである。
ここには以前も以後もなく、一切が現在である」


    • -



「欲望と理解力の及ばないところに暗黒がある。そこに輝くのが神である」
「人が捨て去ることができる最高にして究極は、神のために神を捨て去るということである」

 などの言葉を眺めながら呆然と心に思い描いたのは(これもiydさんに紹介された)斉藤清六の「ぎんぎらぎんにさりげなく」である。やはり名人が紹介するものはすごいなと思うと同時に、エックハルトさんの言葉もまったく意味は分からないけれど何かしらを喚起する力がものすごい。

雑記


 巨大なクロスワードのような模様が、一定間隔で空を横切る。8×8マスくらいの2階調のドット画で、なにかの断片のよう。おばちゃんみたいな声ともう一人の声が聞こえる。空が消えて、左を向いてリンゴをくわえ、右側の羽根が何枚にも重なるよう図案化された鷹のドット画が現れる。あれが正解なのかな?と眺める。両手を肩の高さでぐるっと一周させたまま飛んでいる人の図案を見せられる。色のバリエーションが沢山あって、それはいろんな神様なのだと教えられる。

 砂漠の国の空港。ロビーには椰子や南国らしい珍しい植物の大きな葉が見える。荷造りの仕方がまずかったのか、従業員の扱いが雑だったのか、半年滞在分の大きな荷物が崩れ、連れてきた飼犬が下敷きになり瀕死となる。言葉が通じずに困っていると、レネ軍曹と名乗る人物が現れ、すぐに獣医に連絡してくれたが、けっきょく犬は助からずに死んでしまった。軍曹は「田舎の小国なのでなにもかもが雑だし、犬など死んでも誰も気にしないのです」としきりに謝り、おわびに気晴らしになるようなものをくれると云う。着崩した軍服の大きく開いた胸元には絹のような光沢の不思議な白い布をまき、口調や物腰の上品で知的な雰囲気は乾いた土地柄とは異質な印象をうける。なにもそこまでしていただかなくてもと私は応じたが、正直この謎の人物の得体の知れない魅力のようなものにひかれ、すぐ後日再会することとなった。
 人里離れた砂漠のまん中に隠れた泉があって、水辺に大きな岩がむき出し椰子や草が生い茂っている。軍曹が砂を払うと丈夫な布が地面から現れる。だいぶ昔に隠した飛行機で「少し整備すれば飛べるから、さしあげます」と云う。それからしばらく、あれこれとおたがいの身の上やら世間話をして別れた。私はその場所が気に入り、それからも用もなく訪れてはのんびり過ごすようになった。いつも対岸には白いパラソルが陽炎に揺れて光り、その陰で本を読んだり眠りこける軍曹らしき人影を見かけるにつけ、軍曹といってもそんな調子だから長閑な国なのだなと思った。
 しばらく経ったある日。憲兵が私のところにやってきて軍曹のことをあれこれ聞いていった。どこで知り合ったのか、どんなことを話したのか。別段隠すようなこともないので世間話の一部始終を洗いざらい話すと憲兵は去っていった。水辺と飛行機のことは忘れていたか無意識に隠そうとしていたのか話さなかった。国を離れる日が近づいたころ、また水辺を訪れてあの砂の下の布を探した。すぐに見つかった布を剥がしてみると、そこにはただ砂があるだけだった。(2/13)



 「過去は振り返らないぜ」とは誰が最初に云ったのか知らないけれど、なんかそんな台詞を聞いたことがある。僕は今まで生きてきて一度も言ったことはないし、いったいどんな気分でそう言うんだろうなと想像してみても全然うまくいかない。ただ書きたいなと思っても書くことなんてないから何かしら反省してみてそれをネタにして日記を書く。というか、ネタにしてというのはそれを面白くしてとか、一応出口のあるお話として昇華してみたいなニュアンスの言い方であって、僕のはただの反省そのままなのだから、ただの反省文だ。日記も一日の反省文みたいな言い方も出来るけど、そういう感じでもなく、なんの意味も考えもなくただの反省文だ。たぶん心から本気で反省していたら恥ずかしくて何も書けないはずなのだけれど、僕のは多分うその反省とか反省のふりという予感どおりで、「過去は振り返らないぜ」と試しに心で唱えてみて(恥を忘れて)こうして過去を振り返る日記を書く。
 子供の頃は悪さをすると反省文を書かされて「めんどくせえなちくしょう」と思ったもんだけど、あのころ私に反省文を書かせていた大人たちより歳をとり、おっさんになった今の私は誰に頼まれもしないのにこうしてせっせとただの反省文を書いている。そのことを思うとおかしいし、無駄口ばかりの情けないおっさんだと思う。これは何かというとすぐ反省文やら感想文を書かせる我国の国語教育の弊害ではないのか。おかげで私のような意思の弱い人間がいざ書く自由を与えられ、なんとなく油断したまま何かしら書いてみてもすぐにただの反省文になってしまう。それしかものの見方、考え方、書き方を知らないから。意思の強い人だけが本当に自由なことを書けるんだろうなあ、すげえなと思う。
 私は意思が弱いだけでなく、不真面目でもあったので、子供のころも「めんどくせえなちくしょう」と思って反省文を書いていたし、思えばその頃からうその反省や反省のふりだったのだから、今とあんまり変わっていないしぜんぜん進歩がない。
 いま自分が反省文っぽくない気分で作文をしようとすると夢の記録ぐらいしかやり方が無い。あれを書いている時はぜんぜん反省していないし無責任だし、夢には意味も理も原因も何もないのだから、書いていてとても開放感がある。ただ書きたいとか開放感がどうので書いている作文なのだからこれを読んでもなんにもない。どうもありがとうございます。(2/14)



●たしか大雪が降った日。人づてに「爆弾低気圧」という言葉を初めて聴いた時に笑ったのを急に思い出したけど、何がおかしかったんだろう。これといい「ゲリラ豪雨」といい、なんでこの方向性なんだろ。特定の軍艦の名に気象関係の大和言葉が使われてるようなことを思い出したけど、wikiを見ると外来語(bomb cyclone)の和訳みたいで、全然無関係だった。

●手を離してじっと眺めているあいだ、電磁加速砲の音が耳のそばの血管を血が流れる音に似ている。子供の頃にふとんの中でよく聴いた気がするけど、そういえば歳をとったらめっきり聴かなくなった。

●kが実家に泊まっている。普段は居間でテレビを見たりしている。冷蔵庫に誰かが買いだめしたような形跡の出来合いの食料があって、それを一緒に食べたりする。いったい家のどこで寝泊まりしているのか気になるが、なんとなくそのまま。二日目に二階に上がってみると、今は物置となった奥の客間に続く廊下にたたんだ布団があり、横でkが正座してこっちを見ている。訴えるように「荷物をまとめてもう帰るよ」と云う。ちょっと待ってくれごめんごめんと、それをなだめる。横の元自室に招き布団を広げる。kの顔は全然変わっていなくて、とても素直な調子でざっくらばらんに話す。結婚せずに独りで横浜に住んでいるという。昔を思い出してなんとも言えない気分になり胸を締め付けられる。そこでことに及ぶが、kは痩せていて抱きついてもマッスや温度、手ごたえのようなものが感じられず、心は乾いたまま。何がないということになり、明け方の青ざめた住宅地をコンビニまで寄りそって歩く。その間もkはこちらの思いどおりの甘い仕草と声でささやき、夢なのか半覚醒のこちらの勝手な妄想か分からなくなって、自己嫌悪のようなうんざりした気分で目覚める。