朝の浮き輪

 未明。便所で力んでいる最中、気づくとなぜかとてもさわやかで優しい気分になっていたんだ。そして気づいたらレタスさんみたいな気分になっていた。レタスさんという方がいて、こういう喋り方(書き方)をするんだ。今朝の僕はレタスさんっぽい気分なので、そういうふうに書いている。そして途中でめんどくさくなって放棄していたオガーさんに関する作文のための序文を書いてみようと思ったんだ。今日はレタスさんみたいな気分だから、そういうおおらかで静かなような気持ちになったんだ。傍らには冷たくなったインスタントのコーヒーがある。泥水のようなそれを一口飲むたび、いま僕はレタスさんみたいな気分でいるけど、しょせんは偽物で、レタスさんでも誰でもない、ただの一人のクルクルパーなんだと思い出すんだ。








 歌う坂本冬美の眼鏡の丸いレンズを視て、僕は何かを思い出そうとしていた。同じセーラー服でもHISの時と違うのはこの眼鏡なんだ。(このコスプレを提案したのが清志郎なのか誰なのか知らないけれど、きっと言い出した張本人も息を飲んだんじゃないか?というくらいに)狙いより遥かにもっさりして、得体の知れない雰囲気を発散している。僕はこのカバー曲の芸術性や表現性、ポップスの技術みたいなことは分からないからあれこれ言えないのだけれど、歌う坂本冬美の眼鏡の丸いレンズ周辺に漂うわけの分からない雰囲気こそがアウラで、「芸術の一回性」という言い方にもピンとくるものがあったんだ。根拠はいっさい無いんだ。
 他のメンバーはコスプレっぽいけど坂本冬美のは「コスチュームプレイ」という言葉で片付けていいものなのか、僕には分からないんだ。ここで演出された懐かしい昭和(コスプレによる懐メロカバー)と、この映像自体がすでに発散している懐かしさ。この絵は、どこまでが絵でどこからが額か分からないような巧妙な多層構造をしていて、僕の目と耳はしっくりくるピントを求めてさまよう。そしてわけが分からなくなって落ち着いた先が坂本冬美の(HISの時とは違う)眼鏡の丸いレンズだったんだ。

 そうして僕が坂本冬美の眼鏡の丸いレンズに流れ着いた頃、いつだかオガーさんが「ピチカートファイヴは歌詞の何もないところがいいですよね。好きですよ」と言っていたのを思い出していたんだ。その時の僕は「歌詞について書かれた歌詞、歌についての歌っている歌、自己言及的であるみたいなことを言っているのかな?」とだいぶ勝手に解釈してしまっていて、「好きですよ」もオガーさん独特の言い回しで、本当に好きなんだとは全然思っていなかった。だけど近頃オガーさんが貼っているユーチューブの歌を聴いてみると、うまく言えないけどピチカートっぽい感じのするものがあって、嗚呼あの時の「好きですよ」は、僕が考えていたよりずっと率直な言葉だったのかなあと思ったんだ。

 ここまでが、僕がレタスさんみたいな気分で考えたことなんだ。ここから先は、レタスさんみたいな気分の僕ではなくて、ただのクルクルパーの僕がオガーさんの作文を読んで感じたことを書いてみたやつなんだ。以前、オガーさんとオガーさんの音楽活動について少しだけお話しする機会があったのだけれど、だいぶぼんやりしたまま話してしまっていた気がするんだ。あの時も「オガーさんの音楽の坂本冬美の眼鏡の丸いレンズ」という視点が必要だった気がするし、きっと、さまようピントがつかむ浮き輪が必要だったんだ。





 オガーさんの日記(というか、音楽家に関する作文)を読んでいた。「下水のヘドロの臭気と闇の中でしか生きられない」と自身のことを書くオガーさんが、僕には水の中をすごいスピードで泳ぐマグロのように感じる。なるべく「生きやすいように」と、もがくのをやめ、苦しみの種となるいろいろの感覚や目的を忘れ、身に降りかかるあれこれを全部受け入れる(受け入れない)と言うオガーさんと、水中を高速で移動するため無駄をそぎ落とし弾頭のような流線型に形を進化させ、泳ぐのをやめると死んでしまうマグロ。マグロの回遊には元来ちゃんとした理由があるにせよ、水族館の水槽に入れてもぐるぐる回遊し続けるマグロが、なにか目的と手段が転倒したように、泳ぐために泳いでるように見えて不思議な気分になったのを思いだす。青黒い身体を光らせ水の中を突進するマグロと、焼肉食べ放題に突撃し「まずいまずい」と言いながら気持ち悪くなるまで食べまくるオガーさんのことを僕は一緒に想像する。

 オガーさんがマグロなら自分はなんだろうかと想像していると、マンボウのことが心に浮かんだけれど、それは共感や親近感というより、ただの憧れだ。基本的にマンボウは水中を漂うだけなので、すぐ身体に他の生物が寄生する。それが痒いのかなんのか分からないが、寄生する生物をはたき落とすために時おり水面にジャンプし、その着水の衝撃で死んだりするらしい。運動しすぎるとその発熱で死んでしまうというナマケモノもなんとなく似ている。それらはきっと省エネを突き詰めた結果で、長い時間の進化と淘汰を経て、今日もそうして堂々と生きているのだから立派だし、なんだかとんでもない自由さを感じる。その自由さは、集団自殺する生物のような「種の保存」という目的に縛られたものとも全然違う。怖い、痛い、寒い、ひもじい、寂しいという、生き物を生に縛り付ける仕組みからの自由。人なんぞに至っては(搾取する側の都合で)命は地球より重いなどと言い出す。そしてマンボウは自分のジャンプで衝撃死し、ナマケモノは自分の熱で死ぬ。
 生き物の死に意味や優劣はなくて、みな等しい意味を持っているという意味で無意味なのだろう。マグロは回遊水槽でぐるぐる廻っていつかは死に、マンボウはジャンプして着水の衝撃で死ぬ。ただそれだけのこと。死の意味や価値などと考えるのは人間だけで、そうやって縛られている僕もまた、自然の多様性というのの範疇に当たり前のように収まるマンボウナマケモノの死に方におどろく。

 生き物が魂というパイロットを乗せた戦闘機みたいなものだと想像する。それぞれ燃料補給したり故障したり敵機に撃たれて傷ついたりしながら、どうにか遠くまで飛んで行こうとする。マンボウナマケモノの機体にはものすごく敏感なボタンで作動する脱出装置がついていて、何かの手違い一つで魂を脱出させてしまう。省エネを突き詰めた結果のそのような進化だとしても、死んでしまったら元も子もないような気がするから不可解だ。マンボウのジャンプも、ナマケモノが発熱する運動も、それぞれが危機への対処で、対処しなければどのみちやられて死んでしまう。でもその対処が原因でけっきょく死んでしまう。ワンクッション入れて他殺が自殺となる。つくづく神秘的だ。
 オガーさんは戦闘機というより、はねの小さいロケットっぽい感じがする。そして魂が乗り込んだコックピットは外から溶接されている、、などと書いていると、なんとなく旧帝国海軍の人間魚雷「回天」みたいな感じがしてきた。オガーさんが書く文章が伝える人間「小川直人」は、食べ放題の焼肉屋や回転寿司屋、ある時はブックオフのウン百円コーナー、またある時はイトーヨーカドーの文房具コーナーの墨汁セール、靴屋に陳列された大量の靴などに日夜突撃をくり返す人間魚雷「回天」である。(2/23)