かわいいすべり台


 「久しぶりに、サッポロ一番の塩ラーメンを食べたらうまかったよ」と言うと「カップか袋か」と返ってきたので「カップのやつ」と応えると「袋のやつじゃないと麺の感じがどうのこうの」という話が始まる。いろいろ込み入った話をした翌日で、こちらとしてはふわふわした気分で何を口にしたらよいのかワケも分からないまま「サッポロ一番の塩ラーメンがどうの」と切り出してしまったので、そのままサッポロ一番塩ラーメンの話が普通に続いたことに、拍子抜けというか、果たしてこれでいいのだろうかという違和感ばかりがざらざらと、中まで砂まみれの靴で浜辺を歩いているような気分だった。

 現代詩や宣伝コピーなど、高密度高比重高圧度の言葉の世界と、「うう」とか「ああ」とか「すんませんまたよろしくお願します」だとか、いわゆる日常の言葉の世界の間で「小説(の方法)」は浸透膜のような役割をはたし、読者を両方の世界に往来させる。それでまた両方の世界の住人から感謝されたり「よけいなお世話だ」とか文句を言われたり云々、などというある作家の話を思い出し、この話の「小説」のところを「ポップミュージック」で置き換えたらどんなもんか?と呆然と考えていた。
 音楽が登って降りる階段のような構造物だと想像してみる。現代音楽とかクラシックとかの非軽音楽は、頂上まで登るとやたらと見晴らしのいい丘の上の神社に続くような石段で、一段一段が高く、それにへばりついて登って降りて帰ってくるまで1時間とか2時間とか平気でかかる。もともと時間も金も有り余った貴族がリスナーで作らせていた音楽なのだから、平気でそんくらいはかかる。ポップスの方は頂上まで登ってもせいぜい数mほどの規模で、上り下りに3分ほど。頂上からの眺めも地上とあんまり変わらない。そう考えると一時やたらと空気のように軽く透明で抵抗感のないやつを躍起になって選り好んで聴いていたのは、一段一段の段差がなるべく少ない、つるっとしたスロープみたいなもの、一気に駆け上って滑って降りてこれるような可愛らしい滑り台が欲しかっただけのように思える。頂上からの眺めは別にどうでも良くて、砂場やら投げ捨てられた玩具やらを地上とは少し違う角度で眺めるだけで満足だった。どのくらい段差がなくて、つるっとしているかということのほうが重大事だった。*1


 そんなことを徒然と思いながらトンネルの出口のほうに見えた景色は、オガーさんのライブ映像の最前列で、演奏したり暴れたりするオガーさんと至近の距離で煙草を吸いながら笑顔で身体を揺らし頭を振るショートヘアの女性のことだった。だいぶ前に観た時もその女性のことばかり観てしまったし、今回何気なく踏んでみたライブ映像でもその女性のことが気になった(それで同じ動画なんだと気づいた)。僕はその女性について(最初に観たときからずっと)なにか言いたいことがあるような気がするのだけれど、どうしても良い言葉がみつからない。手持ちを見回してみてもせいぜい「多部未華子」くらいで、オガーさんのような「豆大福」を持っていない。ぷらぷら歩いて出口に着くまでに何かしら思いつくかなと期待したけど全然ダメだったので、僕はまたトンネルの暗がりの方へ来た道を引き返すことにした。(3/7)

*1:わざわざ自分で選んだ音楽を自分に聴かせるということ自体がなくなったので過去形にしたけれど、たぶん今でもそういう感覚は変わっていない。