塩ラーメン


 この前の塩ラーメンにひきつづき、今度はタンメンをジャケ買いしてしまった。思い返せば僕が馴染みのないカップラーメンに手を出すときはいつもジャケ買いである。「このメーカーはどうの」やら「このスーパーのなんちゃらシリーズは日清のプライベートブランドだから云々」といちいち考えるのは「ブルーノートのウン千番台がどうの」などというのに似ていて、いわゆる「レーベル買い」になるんだろう。。などと適当に書き始めると、いったい何を書いているんだ自分は、日本語ってこういう感じで良かったんだっけ?と覿面におぼつかなくなってくる。
 レコードに関して言うと、僕はずっとジャケ買いには懐疑的だった。ジャケ買いと一口に言っても幅があって、己の美意識に厳密に即して選ぶ狭義のジャケ買いもあれば「ぜんぜん自分の美意識とは相容れないけど、こういうアレな雰囲気のジャケのが意外とこんな内容だったりして云々」みたいな経験則に依る広義のジャケ買いもある。後者のジャケ買いならうなづける部分もあるが、自分の美意識を直撃するようなジャケのレコードを買ってまず満足した試しがない。

 それでこの「ニュータッチ・野菜タンメン」なんだけど「このジャケに、グッとくるレーベル、、今日は一発これに賭けてみるか。。」と食べてみたんだけど、どうもいまひとつピンと来なかった。ぜんぜん不味くはないんだけど、個人的にはなにか心に引っかかるようなフックに欠ける気がした。カップラーメンの塩味みたいなやつで、グッとくるパンチや、心に残るニュアンスや余韻を目論むのは難しいことなのかも知れないけれど、この前の「サッポロ一番・塩ラーメン」は全体がバランス良くまとまり、一口目から食べ終わるまで飽きさせない均整に優れた印象があった気がする。*1 ちなみに近頃食べておいしいかったカップラーメンは、タバコの販促キャンペーンでタダで付いてきた試食サイズの「スーパーカップ・もやし味噌ラーメン」だ。

 塩味のカップラーメンというのは「いま僕は、塩ラーメンを食べている」と絶えず自覚し続けないと、自分が何を食べているのかすぐ忘れてしまう。それは手がかりの少ない絶壁をロッククライミングするようなもので、気を緩めればあっというまに「カップラーメン=本物のラーメンの廉価な代替物、従属物」という奈落の底に墜落し、折れた想像の翼をいくら振ろうが二度と這い上がることは出来ない。想像の浮力、それも一本調子の単純な想像力ではダメで、より自由で柔軟な発想と新鮮な気分で向き合うべきだ。*2
 澄んだスープと白い湯気の先に冬の海を想像してみる。ベンワットの"northmarine drive"*3もいいが、なんとなく野菜が生煮えな感じもする。そこでラビシフレの"cannock chase"を再生してみる。あの中ジャケの雲間から光射す芒洋としたモノクロームの海と、原始の有機物のスープ。さざなみのようなリフの寄せ返す小石の汀、砕ける散る波頭が空気にとけこむきわの冷気と潮風。
 いま僕は、潮ラーメンを食べている。









*1:なんとなく体調やその時の気分な気もするんだけど。。

*2:醤油や味噌のカップラーメンは、いつかどこかで食べておいしいなと思ったラーメンを想像し、その水準まで足りない何かを想像力で補うことで、僕は比較的単純においしく感じる。ここで必要なのは具体的かつ方向性のある想像力で、「なんちゃらの水と小麦の謹製手打ち麺がどうの」とか「なんちゃらの味噌づくり一筋ウン十年・小林源之助(89歳)」みたいなことを思い、ただ目の前のカップラーメンに向かえば事足りる。ところが塩ラーメンになってくるとなぜか「塩づくり名人・小林源之助(89歳)」が頭の中に現れることはなく、「野菜のうまみが凝縮されたスープがどうの」と謳うパッケージの文言を眺めたところで雲をつかむような話なのである。

*3:http://youtu.be/XYai6vG2Qhk