談話室 誠実


私:またあれからヘ先生のことについてだらだら考えたり、何度か書いてみたりしたんだけど全然ダメだったよ。
僕:飽きないね。というか暇だね。
私:私なんかただそのまま暮らしていてもなんもないからね、なんか気にして考えてみないと不安になったり心配になるんだよ。あーなんにもねえやって。
僕:その動機からして、考えるフリだけで、内容や結果は二の次っていうね。。
私:それで今まで自分がどんなふうにへ先生の写真を観て、なにを感じてきたのか振り返ってみてたんだけど。大根ごしの風景を撮りまくるへ先生や、出来上がった「めし」に味海苔を突き刺しているへ先生の姿が想像できたところでだいたいいつも自分は満足してしまって、その先のこととか、うまそうとかまずそうとか単純で一番原理的なような感想すら出てこなくて、あーやっぱダメだなってなっちゃってね。
僕:反省してみるとだいたいいつもダメだね。
私:たぶん、生のへ先生と会ったことで、それまでブログの文章や写真に触れて私が勝手に想像で作りだしたへ先生の人物像というのが明確に意識させられてしまって、きっと私の中でへ先生が分裂したんだと思ったのよ。
僕:よく分からんけど、難儀だね。。
私:誤解の無いように言っとくけど、決して自分の想像していた人物像と生のへ先生が違ったとかではないよ。ただ、現実のへ先生をみて、すこしお話しして、ああ、やっぱりへ先生っていう人がちゃんと実在して、どこか同じ空の下で暮らしていて、今は同じ場所、自分の眼の前にいるんだって考えたら、なんだかワケが分からなくなっちゃって、想像以上に自分にとってはインパクトがあったんだと思う。
僕:生で会って話したといっても「ビックリマンシールが今は80円でそれが高いか安いか」みたいな話しかしていないけどもね。。あと「ちゃんと実在してた」っていう感想も至極失礼だと思うけどね。。
私:そうそう。そもそもからして想像上のへ先生と生のへ先生の二つに分裂するっていう理由がないんだよ。でも私の中では確実に何かが分裂している実感があって、どうしても書きづらくてしょうがなくて、けっきょく諦めたんだけどね。それでもう少し考えてみたら、分裂したのはヘ先生じゃなくて、こっちの方なんだって思ったわけよ。
僕:ああ、だから僕がいるんですか。。。
私:そう。もういっそのこと分裂したまま対話形式で書けばいいやと開き直ることにした。一応最後に「私」と「僕」の共同製作で書いたへ先生についての作文もあるから気が向いたら読んでくれ。そんで、なんか気づいたら教えて。
僕:まあ、共同製作だから内容はだいたい知ってるけどね。。そうか、そういう理由で僕はここにいるのか。。それを聞くと、何を話したらいいのか混乱してくるね。。写真や文章からへ先生を想像していたのが「私」で、生で対面して「ビックリマンシール80円が高いか安いか」みたいな話をしていたのが「僕」ってことか。。
私:分かってきたね。それでどっちがより誠実で本当の姿の「私」であり「僕」なのかという問題で、こうして分裂してしまったわけだね。
僕:なるほど、、じゃあ、こうして仲良く世間話してる場合じゃなくて、「こっちこそが誠実である」という議論をしたり、もっと相克みたいなもんがないとダメなわけか。。ちょっと唐突に呼び出されたもんだから、ぼーっとしてたわ。

俺:おい、ちょっと待ってくれ。俺の話を聞いてくれ。
 場所は荻窪だか阿佐ヶ谷。不動産屋に行き紹介してもらった最初のアパートに引っ越す。家賃は25000円で共益費だかなんとか費が3000円。ものすごく古くてボロい木造の建物。一番西側の細長い部屋。縁側のある南側と西側の小さい窓の障子から明かりが入り、夕方前でも室内はぼんやりと明るい。古い戸棚を開けたような匂いがして、畳は飴のような色艶をしている。
 強い陽の差し込む西の窓の障子を開けてみると、窓の外に頑丈な鎧戸のような防犯用の柵がついていて、想像していた視界がないうえに圧迫感がひどい。それよりも、てっきり西陽のせいで部屋が明るいと思っていたがこんな鎧戸があるのにどこから光が入ってくるのかワケが分からない。障子と窓の間の10cmほどの不自然なスペースそれ自体が、白く強い光を発しているようでなにか恐ろしくなり、契約を取り消せないかと考える。
 食堂のような共同スペースの大きなテーブルで他の入居者が作った(お茶漬けのような)不思議な料理を食べている。○○山荘という名前は、ここを最初に作って仲間と暮らしていた人が登山愛好家で、近所の小高い丘を眺められる位置に建てたという話を聞く。見せてもらった古いモノクロ写真には、アパートの庭で登山の格好をした3人の男が空の方を眺めてポーズをとっている。
 これが2/9にみた夢ね。このシーンの前に、自転車を盗まれて追いかける場面も見た気がして、たぶん犯人は外国人だと思うんだけど、お前らなんか覚えてない?

私:お、覚えてないな。。
僕:誰だよ。いま取り込み中だから後にしてもらえるかな。。
俺:俺だよ、俺俺。なんかさっきから聞いてりゃ埒の飽かない話ばっかしやがって。誰が一番誠実か?って話なら、そら俺でしょう。へ先生がどうのって、おまえらが無い知恵しぼって考えてみたところで、日頃の暮らしからして不真面目な人間がいくら考えこんだってそれはウソで不毛なんだよ。それよりも俺みたいに日々淡々と幻のことを観察して、再現性を高めることだけ考えて、とにかく記録しつづけりゃいいんだよ。身の程わきまえてやれることからコツコツとだよ。その点で俺が一番誠実で、かつ謙虚だと思わんかね。
私:まあ、、それはそうなんだけど。。なんつうか夢だけ記録するブログって、意に反して通りがかりの人の憐れみを乞うてるみたいで、乞食芸というか、、なんかちょっとそういうのも不本意じゃないですか。。
俺:人の憐れみだとかいっちょまえなこと考えるなよ。人目を気にしたり、まずそれが誠実じゃないっての。これは誰かのために書いてるのか? 自分の作文が誰かのためになると思うのか? まずそういうのが思い上がりだし、自分が満足するかしないかしかないだろ。それが誠実ということだと思うよ。
僕:また、ややこしい奴が来やがったな。。
私:収集がつかないわ。。とにかく、分裂した状態で無理に考えて書いてみてもダメで、分裂してるならあからさまに分裂してるのをさらけ出したまま書いた方が、少しは誠実かなということ。私から言いたいのはそれだけです。もう疲れたので寝ます。。
僕:おつかれさま。「誠実、誠実」って誠実の大バーゲンでなんか言葉の胡散臭さや便利さばかりが目立つ結果に。。などと言い残してくのは誠実なのか不誠実なのか分からないけれど、おやすみなさい。。
俺:無理せず夢の記録だけしてればいいんだよ。無理をするのは不誠実。じゃあまた。





 大根ストリートヴューを自分が初めて観た時から今まで感じていた「とぼけている」とか「素頓狂」という印象の中身や原因は一体なんなのだろう?ということを、ぼんやり考えていた。
 いつだかへ先生がブログの見た目を変えた(今のフォーマットになった)時「俺の住んでいる(いた)ぼろアパートの部屋みたいに、なにもない感じにしたかった」と書いていたのを思い出す。いつからかそのフォーマットの最新記事の上部には小さな大根ストヴュー(以外も含む、水耕栽培の大根写真)の小さなサムネイルが並ぶようになって、それに最初に気づいたときも相変わらず僕は「とぼけている」とか「素頓狂」だなと感じたし、なんだか可愛らしいなとも思った。あの並んだサムネイルはちょうどへ先生の部屋に飾られた水耕栽培の大根そのままの存在感を発揮しているように見えて、いつかのへ先生の「なにもない俺の部屋みたいにしたかった」はずっと有効で、それは自分が最初になんとなく想像していたよりもぜんぜん根深かったんだと、ふと思い出したりしたのを覚えている。

 「とぼけている」とか「素頓狂」と言えば、へ先生の食事写真を眺める時も僕はそういう感情を得ることが多くて、へ先生の「めし」の写真には、ある時は調味料でなんか描いてあったり、またある時は鷹の爪がひょうきんな形に並べてあったり、関係あるのか無いのか(とにかく傍目には)意味の分からない人形がめしの回りを飾っていたり、とつぜん味海苔がつき刺さっていたりした。
 (僕は写真の歴史や伝統みたいなことを全く知らないのだけれど)そういう「めし」の写真を観て、ああこれは一枚の写真が否応無しに背負ってしまう写真の歴史や伝統みたいなものが窮屈でぶっ壊したいのかな?とか、そういういろんなしがらみが邪魔だから取り外して「食べ物と自分が、何もない自分の部屋に『ただ在る』ということを映したいのかなあ」というふうに観てしまっていた。前置きしたとおり、自分は写真の歴史とか伝統とかぜんぜん知らないくせにそう思ってしまうのだから、本当に矛盾した話なのだけれど。

 なんで矛盾したそういう感想を持ってしまうかというと、へ先生の「めし」の写真が、絵画表現の歴史の中の「ニューペインティング運動」みたいなのと少し重なって見えたからだと思う(写真の歴史は知らないけれど絵画の歴史は半端にかじっているので、写真と絵画じゃ平面で正面性があること以外そもそもの仕組みがまったく違うのに、クセで半端に比較して考えてしまう)。ニューペインティングという運動には、とにかく描きたいという初期衝動を優先して従来の絵画の歴史や形式や伝統をやぶろうとしたり、当時のシミュレーショニズムやミニマリズムみたいな頭でっかちな流れに対する反動という面があった。それからニューペインティングの作風はしばしばプリミティヴアート(有史以前の原始美術)をモチーフにしたり(結果的に雰囲気が)似ていたりした。「めし」という祭壇のまわりに配されたわけの分からない人形や小物が、原始美術にみられるアミニズム(偶像崇拝)そっくりに見えて、うーんますますニューペインティングっぽいなあ、、などと感じていた気がする。
 僕がヘ先生の大根ストヴューや「めし」の写真に感じた「とぼけている」とか「素頓狂」という印象、それの中身は、写真からうける無垢で(たぶん狙って)稚拙で朴訥とした感触だったのだろうか。

 少し前に知らない人がへ先生の「めし」写真について「まずそうに撮る天才、才能」みたいなことを言っていて、それに対してへ先生「なーにがマズそうだよ。バカヤロー。」というやりとりがあった。たぶん気心知れた間柄の気のおけないやり取りの一部で、きっと些細なことなのだろうけれど「ああ、へ先生は写真の歴史だけじゃなくて食の歴史や伝統みたいなものも自分の写真からはぎ取ろうとしたいのかなあ」などとぼんやり感じた。
 僕は写真同様、食の歴史や伝統みたいなことも全く知らないけれど、なんとなく見ていて心地よい色や形、食べる人をまず見た目でもてなすような心遣いや工夫というのも食文化の重大事なのだろうということはすぐ想像出来る。「まずそうに撮る」と言った方は、きっと最初からある食文化の伝統や歴史に当たり前のように則り、そこから逃れられないものとして考え始めた結果の意見で、へ先生はまずそういう歴史や伝統とか枠組みからどうこうしようとか、とにかく虚飾を剥いでやりたい!くらいに考えている感じで、ただ考え始める出発点の違いなのかなあと感じた。伝統や歴史に寄りかからずに、へ先生の自分だけの方法で「うまそう」に辿り着きたいのかなあ、みたいなふうに感じた。

 ああだこうだ書いていても、やはり「これが自分の意見」と言えるようなはっきりした答えは出てこない。自分がへ先生の「めし」の写真を見て、うまそうかまずそうかどちらに感じるかはその時々でまちまちなのだけれど、それよりもなによりも、いつもまず最初に感じ想像してしまうのは、ただ楽しげににやにやしながら(あるいは、ものすごく真剣な表情で)皿の回りに鷹の爪を並べて、いろんな歴史や伝統や枠組みみたいなものと格闘するへ先生の姿である。そうして格闘してみた結果や、その先のことになると自分には全然考えが及ばない。ただ、へ先生の姿を想像したところで自分はなんだかほっとして満足してしまい、考えるのをやめてしまう。へ先生の写真を見ている時の自分の態度を思い返すと、なんとなくいつもそんな感じだった気がして、けっきょく自分は不真面目でダメだなあと諦めしまう。
 へ先生の写真がどうこうというより、ただなんとなくほっとしたいだけなのかおまえ(おれ)は?

 文章が好きなのか写真が好きなのかと自問してみるとどうもはっきりしない、結局それらを書いたり撮ったり作ったりしている人自体が好きなんだというのがしっくりくる。もちろん僕は本当のへ先生のことなど分っていなくて、僕が見ているのはへ先生の作った言葉や写真を見て僕が勝手に作り出した想像の人物である。
 たぶんいつも僕の考えや視線はへ先生の言葉や写真、創作物の中で起きていることに適切に向かい、そこにちゃんと留まろうとはせず、それら創作物を通過してへ先生の幻を追いかけて触ろうとする。そういう好きになり方や気になり方でいいんだろうかと反省する。グラビヤ(写日記)や歌(日記)を観て、アイドルの本当の姿やウソの姿のことを夢想する世のアイドルファンと自分とでは何が違うのか。