バタバタ

 iydさんが日記に子供時代の「こおり鬼」のことを書いていて、「あったなあ、懐かしい。。」と子供の頃の遊びのことをあれこれ思い出していた。
 自分らの方でもこおり鬼はあったけれど、どうもルールがよく思い出せない。こちらの地方では「鬼に触られると氷る」んじゃなくて「氷る(動きを止める)と、その間は鬼にタッチされない」というルールだった気もする。こおり鬼はこちらではメジャーな鬼ごっこではなくて、ある日誰かがとつぜん他所から持ち込んできて「じゃあ試しにやってみる?」という感じで、基本的にいつも探り探りやっていたような記憶があるから、地元に根付いた遊びではなく「きっとこおり鬼の本場はどこか他所にあるんだろうな」という感覚が子供心にあった。動きが静止しているという状況の定義や厳密さでいつも揉めたし(はい、おまえ心臓が動いているからダメー!とかいう変な子供がいたでしょう)、同じ学区内でさえこおり鬼については様々なローカルルール(氷るのは仲間がタッチするまで無制限とか十秒間とか)が錯綜していて、毎回事前にルールの擦り合わせが必要だったりして、そういう諸々の煩雑さがあっていまひとつ遊びに没入できなかった。たかが鬼ごっこごときで集中できるもクソもあるかという話かもしれないが、シンプルな遊びだからこそ明快なルールの完成度や洗練を求めていた(いま振り返って考えると)。ファミコンボードゲームやBB弾の撃ち合いではなく、当時あえて鬼ごっこをやってみる子供同士の気分の通奏低音みたいなものは、そういうところだった気がする。

 ただしプレーンな鬼ごっこというのも、よほど周囲の状況や地形的な変化に富んでいないとただ運動能力や瞬発力だけがものをいう脳筋、遊びというより運動競技になってしまうので、やはりあれこれアレンジしようとする。自分らのところでメジャーだったのは「たか鬼(高鬼)」で、高いところは安全地帯で鬼は入れないという鬼ごっこだった。これも鬼の「手伸ばし」や十秒ルールの有無など事前にすり合わせるルールはいくつかあったけど、比較的スムーズに進行していた気がする。
 それから「いろ鬼(色鬼)」もわりと人気があった。鬼が色を宣言して、子(逃げるほう)はその色にタッチしていれば安全というルール。いかに様々な色の名前を知っているかとか、いかに色の豊富な居場所を確保するかとか、たか鬼より知的な印象で(体力面や志向性において)男女間の格差も少なかった。色の定義で揉めるのは毎度でその部分も含めての遊びという感じだった。たとえば青か緑かで紛糾すると「信号の緑色は青って呼ぶよね」とかなんとかその辺までほぼテンプレ的な流れで辟易したものだった。膠着してくると奥の手のように「透明!」と鬼が宣言するのも恒例で、そういう時は車や家のガラスなどにタッチするのが定石なのだけれど、先の変な子供みたいなやつはその場から一歩も動かず「なんで逃げないの?」と鬼が尋ねると「おれ、(透明な)空気に触ってるから安全!」とか言い出して水を差すのもお決まりのパターンだった。こういうことをねちねちと書いていると「おまえが例の変な子供だったんじゃねえのか」と疑われそうだが、人並みに「みんなで遊びを盛り上げよう」という気概はもって参加していたし、さすがにそこまでは及ばなかった。

 当時、自分の友達の間だけで「バタバタ」と名前のついた遊びがあって、なんのことはなくルールはただの鬼ごっこだった。なんで「バタバタ」かというと、バタリアンというB級なホラー映画のゾンビが怖いとかグロいとかで(学級文庫の「はだしのゲン」を皆で読んで鬱を分かち合う的なノリで)流行っていたからで、本当にただそれだけの理由で「バタバタ」という名前がついていた。なぜ名前を付ける必要があったのか分からないが、子供はそういうもんなのかも知れないし、ただ単純に「鬼ごっこやろうぜ」と言うのが恥ずかしくて、適当な名前を付けることで子供なりのスペシャル感や高級感を付与していたのかも知れない。

 最初は、跳箱代りのタイヤが埋まっていたり土管があったりする校庭の片隅で始まったバタバタだが、ある時期から陽当たりの悪い校舎の北側に場所を移すようになった。陽当たりが悪いだけでなく地面もコンクリート、鉄製のフェンスで仕切られた敷地外の道路は登り坂でブロック石の崖、逆側には4階建てのB棟校舎がすぐそばに迫り、三方を冷たい石で囲まれた幅15m奥行き50mほどのウナギの寝床のような灰色の谷底。寝床の奥、校舎を曲がり込んですぐのところには小さな焼却炉、そして崖の上のフェンスのせいか、そこは映画などで観るような刑務所の中庭的な殺伐と閉塞感が漂っていた。
 なんでそこでやる鬼ごっこが面白かったかというと、ただ単純に地形のせいだった。校舎北側の敷地と平行して登っていく崖のフェンスの内側の縁(分かりづらいので図説参照)は、幅が3,40cmで子供の体でもすれ違うことが出来ない。鬼から逃げるためにそこ(図説AからBへ)を一方通行の状態で登っていくと、一番奥の崖の行き止まりの高さは最大で20mくらいになる。目線が校舎の2階と3階のあいだくらいとなるそこから、下のコンクリの地面に飛び降りるとただ事ではすまないので、適当なところで飛び降りることになるのだけれど、これがチキンレース的な雰囲気があって面白かった。崖は5〜10度くらいの微妙な角度があって、ブロック石の隙間に手足の指を突っ込みロッククライミングさながらに慎重に三点確保すれば上り下りもできるが、そんなことをしていれば鬼にすぐタッチされる。だから崖の縁を全力で登りつつ己の度胸と覚悟と相談したうえでコンクリの奈落に飛び降りるしかないのだ。10mくらいの高さでもコンクリに着地すると脳天と足の骨に痺れが走り、少し遅れてくる激痛によってしばらく動けなくなるので鬼に捕まってしまう。この遊びに熱中していたせいで小中高とずっと帰宅部だったけれど足腰には妙な自信があった。
 当初は4,5人で始まったバタバタだが、気づくとクラスの男子の大勢が参加するようになり、最盛期は総勢15人ほどに膨れ上がった。そもそもは普通の鬼ごっこなのだが、新参にはその特殊な地形でやる鬼ごっこが「バタバタ」という認識だったのだろう。参加人数が増えたことで、崖の縁ですれ違えないという条件がより過酷なものとなり(もっと奥の高いところまで逃げたくても、飛び降りようか迷っているやつが崖の道を塞いでいると後ろから来る鬼に捕まる)、ますますやたらと盛り上がった。運動能力、反射神経、度胸に加え、新たに一方通行の崖の道での対人交渉などの戦略的要素が加味されることとなった。そうしてクラス内で隆盛をきわめ絶頂期を迎えたバタバタだったが、ある日突然担任から「バタバタという遊びは、もうやらないように」とホームルームで宣告され終わってしまった。その時「校舎裏での鬼ごっこ」ではなく、はっきり「バタバタ」と教師が言ったことだけは、なぜか未だに鮮明に印象に残っている。



 子供の頃の遊びをあれこれ思い出すと、今でもわりあい面白く感じるものもあれば、今となってはなにが面白かったのかさっぱり分からないものもある。「俺が子供の頃はカエルに爆竹を仕掛けてどうの」という話をよく聴くけど、私はそれを実際にやったことがなくて、いつも相づちを打つとき少し後ろめたさがある。うちの地元では爆竹は禁止されていて、みんな素直にちゃんとそれに従っていて、せいぜいかんしゃく玉を投げ合ったり車のタイヤに仕掛けたりするくらいだった。すこし年長の従兄弟が住む隣町に遊びにいくとそこはロケット花火や爆竹といった子供にとっての重火器系の解放区で、爆竹を分解してでかい爆竹を作ったり、畑の土の上に爆竹をしかけたプラモをジオラマ的に配し爆発させていた。その時の印象は面白いというより「なんか、すげえな」という畏敬に近い感情で、かんしゃく玉の比較にならない爆竹の音と威力と、作ったプラモを自分で一瞬で壊すという行為自体に感心していた。自分の中ではプラモを模型屋で選んで買ってきて、それを作って余力があれば色を塗って完成、そこで遊びは終わりだったけれど、従兄弟の住む地域ではその先にまだ「爆破する」「壊す」「陶酔する」という続きがあって、その「遊び」に対する探究心とか貪欲さにショックを受けた。爆発させるのは面白いけど一瞬で終わってしまうしプラモは返って来ない、それでもかまわずやってしまう従兄弟の姿になにか求道的なものすら感じて、自分たちとは「遊び」に対する理解や感覚の段階が違うんだなとショックを受けた。

 子供時代の私はコンクリに飛び降り続けたので、ひょっとして飛び降ることは人より得意になったかも知れないけれど、皆が経験するらしい「カエルに爆竹」という言葉にするだけでも血湧き肉踊るような子供時代の感覚のことを知らない。それが今の自分にどう影響しているのか、していないのか、どうでもいいことなのか。みんなカエルに爆竹をしかけて大人の階段を登っていったのだろうか。