君の瞳は○○ボルト


 ○○の日を境に何もかも変わった気がするのは気のせいで、それまで自分が好きで読んだり観ていたものを作っていた人たちが言うことや作るものが変わったのを見て、単純に感化されたりただ気分的に表面的に影響されただけで、本当はなにも変わっていないし考えちゃいない。ぜんぶ気のせいなのだ。なんで私だけは変わらないで相変わらずなんだろうか、いい歳してクルクルパー野郎なのである。
 敬愛する人と幻の中で出会った機会に○○についてどう思うのか慎重に尋ねるとその人は黙っていた。もともと口数が少なく黙りこむことも多い人だから、今回の沈黙がどういう意味なのかどんな気配なのかなど想像もつかなかった。いつもと同じ沈黙のようにも見えるし、いつもと違う沈黙のようにも見えた。○○について私もなにか言おうとするが、どれも全部嘘くさく思えて黙るしかなかった。それでふたりして黙りこんでしまい、せっかく会えたのにこんなことは訊かなければ良かったのだとしみじみとする。
 目的を持って生きる、あるいは無目的にただ闇雲に生き残る、どちらについても真剣に切実に考えていないから、○○のあとも自分は何も変わらないのだ。そういう自分がなにを考えてもウソで、考えているフリをしているだけで、だから作文しても写真を撮ったりしても、ぜんぶウソで中身はない。ウソで中身がないなら、ウソで中身がないような見映えをしてなければいけないのに、勝手にとりつくろおうとする。いや、考えれば考えるほど自分に中身がなく、それに絶えられずごまかすように、むやみに作文したり写真をとってみたりする。

 私が落としたというノートの一番上に「君の瞳は○○ボルト」と迷いのない力強い印象の筆跡で書いてあり、下線が引いてある。その下に「伊勢湾」とか「お茶わん」だとか箇条書きにずらっと並んでいる。「これは馬鹿馬鹿しいな」と笑う自分の声で目が覚め、いつもと同じ薄明かりの天井がある。寸前まで夢のなかで笑っていたけどなにがそんなに可笑しかったのか分からず、ふとんの中で無性に腹立たしい気分になる。そのノートはあなたの日記帳ですと言う「声」を聴き、とても納得する。(12/3)