土壇場の雲


 不意打ちで多部未華子の巨大な顔面がモニタに展開したのを観たとき*1、「わ、女だ」という思いが浮かんで一瞬で消えた。なぜ「女だ」などということを突然思ったのか、「なんなんだそのわけの分からない態度と感想は」ということを考えながら夜明けの路地を歩いていた。女性をみて「女だ」などと思ったのはずいぶん久しぶりな気がして記憶を遡るけれど特に手ごたえがなく、むしろ初めてのような気もする。ふだん現実でもモニタ越しでも出会ったりすれ違う人間の性別のおよそ半分は女性だけれど、そういう女性たちの顔をみても「女だ」とわざわざ当たり前のようなことを思ったりはしない。
 つまり多部未華子を眺めたときの、自分のような人とはなにかが決定的に異質な感じ、肌がぞわぞわするような妙な違和感が、自分にとっての「女だ」という感想なのだろうか。ふだん目にする女性に対して、美しいとかかわいらしいとか魅力的とかそうでないとかの感想を持っても、それらは自分の意識や感覚と地続きの、ただ遠くや近くにあるだけという感じがするけれど、「女だ」という感想をもった感じは、自分の意識とははっきり断絶した、想像のおよばない、想定外の、理解しがたい、なにか感じるのを諦める気分、畏怖や畏敬の念のようなものに似ている気がした。

 路地のおしまいに砂利の空き地が低いつめたい曇天と向き合ってしんとしている。四方を廃墟や朽ちつつもひと気を残す民家に囲まれ、時おり鳴き交わす鳥の声と声の間の静寂には、年寄りや病人じみた咳の音や囁くようなひそひそ声、朝のしたくの気配や見えない視線の気のせいがとけ込んでいる。地の果ての荒野のような地獄谷のような深海のような私の空想に突き出す岬のようにして、曇った朝の空き地が在る。
 空き地わきの自販機にはAKBのメンバー数人の顔のポップが貼られていて、それらの生首が「おはようございます」と笑顔である。こんな場末でAKBもたいへんだと、かじかむ指で硬貨をさし入れながら「しかしここは、つい150年前までは首切りなどの処刑があった所なのだから、生首というのは案外理にかなっているのかも知れない」と、我ながらひょうきんというか呑気な思いつきに、それまで鎖につないで散歩させていたつもりの考えが逃亡する。「どたんば」という言葉の響きもひょうきんな感じがするけれど「土壇場」の語源は首切り用の盛り土と聞いたことを思い出し、なにかその時の感じを思い出す。

 とりとめなく拡散する印象をかき集めて一カ所に押し込もうと、空き地の隅の崩れた石塀に腰掛け空き地を見渡す。つめたい雲が僅かにきれて朝陽がさすと、アパートの壁の燃えたつ輝きを背に巨大な猛禽の銀杏が目覚めはばたき、また雲が重なり陰鬱におし黙る。抜け落ちた羽根だらけの鳥小屋ような空き地は静まりかえり、遠くで鳴き交わす鳥の声と正常な視界がもどる。
 缶コーヒーのぬくもりを探す指先が代わる代わるにたばこを支える。熱とともに缶の実体も失せて、気づけば幻のかたちを手が掴んでいる。夢の景色といま眼の前にある空き地はなにが違うのか、夢を眺めている時のピント調整を意識して空き地を眺める。現実に対して不随意に勝手にピント調整しようとする意識を解放して眺める。平たく書けば(いつものとおり)呆然と眺める。

 指先や足先から冷えてくる寒さが意識されて、その呆然に集中できない。そういえば夢の中では暑いとか寒いとかを感じないような気がする。文章を書くとき言葉や文法を選ぶように、現実を眺めて入力する時にも無意識に解釈が入り込む。記号論のように、景色(世界)は言葉で切り取られ、言葉に転換できた順番に、文法に沿って感受される。夢をみるときはそういう言葉も文法もないかというと逆で、不随意な言葉と文法の選択があらかじめあって、それらがダイレクトに入力されている感覚のほうが多い気がする(きっと現実と変わらない景色でも、夢のなかでは他人のような気分で眺める)。不随意な言葉と文法といっても、とうぜん当人の経験内のそれになるから、その人の知らない言葉や文法は介在せず、レンズの機能は退行のみに限られてくる。それで夢の光景は子供時代の視点や感覚や気分で眺めているような場合が多くなる。
 現実逃避という言葉のとおり、夢や幻をみるということの理由のひとつがストレスへの対処なら、こどもレンズと退行願望みたいなものも繋がっているように、自然に理解できるように感じた。

 目の前の、一つの視界に収まる地獄谷と森と高層ビルの妙な風景を眺め「摩天楼の衣擦れが舗道をひたすのを見たんです」という季節外れの歌の文句を思い出し、重ね合わせてみようとする。不随意な言葉と文法、夢や幻が他人のような感覚と気分で風景を眺めるということなら、知らない他人の歌の景色も、自分の夢の景色も、どちらも感受する構造のようなものは似ているのか(他人の歌の言葉の場合、退行/こどもレンズに限らないわけだけど)。自分は夢や幻をみるように、誰かの歌を聴いたりするものだろうか。ぎゃくに四六時中夢や夢幻に浸れば、歌を聴く動機のひとつを失うのか。(11/29)

*1:アクセス元の画像検索サイトのアドレスを踏んで現れた、かつて自分でここに貼った画像