ずっと佐藤さんの件が頭のなかをぐるぐるして弱る。夜。ふとんの中でどうにか落ち着いたので寝れるかなと思ったら、今度は佐藤さんともニューウェーブみたいなのともまったく関係ない思い出の音楽が頭の中でいくつも重なって一斉に流れはじめ、それが鎮まるとまた佐藤さん(実際に見たことがないので、言葉)が現れた。なんなんだこれは正気の沙汰じゃねえなと自分に呆れた。
 とりあえず気が落ち着くかも知れないので、頭の中をぐるぐるする佐藤さんの音楽の思い出を書いて吐き出そうと考えた。それで自分が楽になるかも知れないから吐き出すだけだし、ただの個人的な思い出を自分の気が済むのに都合よいよう書くだけなので、人の役には立たないし、物好きな方でなければ読まない方がよいです。

  • 佐藤さんが30年前に作った音楽の、何が好きでどのへんが自分に特別だったのか、それを書こうと思う。(残念なことにブログを削除されてしまった)コトリコさんの小見出しと断定口調の書き方がとても読みやすかったので、それを真似て書きます。
  • 佐藤さんの曲で、自分がとくに好きで聴いていたのは「タイミング」や「アンテナ」や「毎日」みたいな曲。前のめりで性急で、突き抜けてポップ(大衆的/消費的)で、いっけん陳腐なような感触のもの。それは佐藤さんの作品の一面でしかないと言われればそのとおりだけど、自分が特に好きでくり返しくり返し聴いていたのがそういう曲だったのだから仕方がない(それから「せんでんカー」みたいなやつも)。「タイミング」や「アンテナ」や「毎日」みたいな曲が、自分にとっては佐藤さんの音楽です。以下に出てくる「佐藤さんの音楽」はそういう曲について書いてある。
  • 佐藤さんの音楽の「思い出」としたのは、自分が佐藤さんの音楽について感じていることや好きなところが昔と比べて変わらず、まったく進歩していないからです。自分にとっては「思い出」であると同時に現在進行の思いなんだけど、対象が活動再開した佐藤さんではなく30年前の作品に対しての感情なので、とりあえず「思い出」としました。




◎再生ボタンをおす

 佐藤さんの音楽を聴くとどうなるか。再生ボタンをおす。音楽が流れる。僕は音楽の空間に入っていく。たいがいはそういう時、警戒心がある。警戒心もなにもなく無心で惚けて聴くような音楽もあるけれど、たいていは警戒心がある。なんで警戒心があるか?と問われると困るけど、とにかく最初からあるものだから仕方がない。ポップスでもあり、音楽表現作品であり、誰かしらがなにかを考えて(考えないで)作った異物なのだから仕方がない。警戒心であり、いいかえれば問題意識である。または無意識のうちに、音楽に「こちらの警戒心を解いて欲しい」と望んで、本末転倒に警戒心を持つのかもしれない。

◎なんで警戒心をもつのか

 自分は中古レコードが好きだった。中古レコードは安いからたくさん買えるし、買うレコードというのも大量に試聴した中から選んだものになる。限られた時間で大量に聴いて欲しいものを取捨するために(知らないうちに)よけい警戒心をもつことになる。選んで買って家に持ち帰ったレコードには、もう警戒心を持つ必要はないのだけれど、警戒心はクセのようになっている。それに自分自身の「完全に無防備な状態」など規定できる知恵も集中力も忍耐力もないので、ひらきなおって警戒心をもつ。警戒心全開で家のレコードを試聴聴きするのもまた楽しい。レコード屋さんごっこができるからだ。

◎お花畑で鳩をおいかける

 佐藤さんの音楽に入っていくと、そこは陰のない明るいお花畑で、いろんなお花が狂い咲いている。子供が絵に描いたようなベタ塗りの青空を鳩が飛んでいく。「なんだろうここは、楽しそうだなあ」と警戒心はすこしずつ解かれ「なんだか出来すぎていて不穏だけれど、ここは心を開いて楽しんでしまった方がお得なんじゃないか?」と思いはじめ、気づくと「楽しいなあ」と笑いながら鳩を追いかけてどこまでも走っていく自分がいる。そうしているとお花畑の先には、草を縛って足を引っかけるような罠やら地雷みたいなのが埋まっていて、私は足下をすくわれ盛大に転ぶ。この、こちらを油断させておいて転ばされる爽快感が、私にとっての一番の魅力である。それがクセになり、またお花畑に足を踏み入れる→鳩を追いかける→こける→たのしい→次はどうかな?とまたお花畑へ。くりかえすうち、音楽といっしょにそういう自分の姿をも同時に観察される。くり返して聴いても飽きなのは、佐藤さんの音楽自体の魅力でもあるし、何度でも転び続ける(自分の知らない)自分に対する興味なのかも知れない。

◎罠の内容

 佐藤さんの音楽にひそむ罠とはどんなものかと考えるけれど、あんまり分かっていない。分かっていれば気にならないし罠でもない。罠は、なにやら自身の音楽を鑑賞する態度への反省を促す。いま自分が聴いているポップミュージックみたいな姿をしたものはなんなのだろう?というメタ(自己言及的)な感じがある。自分がポップミュージックに何を求めているんだろう? (ほんとうに真心から)どれくらいポップミュージックを求めているんだろう? いろいろ考えてポップミュージックを聴いた(消費的なものを消費的に聴かない)場合もポップな質感の軽音楽はポップミュージックなのか。などなど、いろいろと思うきっかけやら、なんだか形而上的な感じのするわけの分からない余韻だけ残して、音楽は足早に終わり、鳩もお花畑も消える。そして、なにもないところに問題や疑問を抱えた自分だけが取り残される。

◎独りで聴く

 自分がどうやって佐藤さんの音楽を聴いていたかとふり返ると、いつも独りで聴いていた。たまに佐藤の音楽が好きな他人と一緒に聴くこともあったが、それはそれで楽しい。でもほとんどは独りで聴いていた。僕の好きな佐藤さんの音楽は、なんだかあけすけというか、表面上白痴的な質感をもっていたから、恥ずかしくて人前で落ち着いて聴くことが出来なかった。独りでも向き合いたい音楽が自分がほんとうに聴きたい音楽だと思うし、大事な音楽なような気がする。独りでは退屈で聴けないような音楽も、みんなと聴くと楽しいと錯覚して、聴けてしまったりすることもあるから、みんなで聴いていて良いと感じた音楽のことをほんとうに自分が好きなのかよく分からない。

◎独りで聴いていたのは音楽なのかレコードなのか

 そもそも音楽には、演奏する人と聴く人の最低二名が必要なことを考えると、自分の「独りで聴く音楽が大事」という思いは間違っているのかも知れない。自分で演奏し歌う人なら独りで音楽を聴くことが出来る。演奏できない自分はレコードなしで音楽を聴くことができない。ただし、音楽家がレコードを作るときは(眼の前に相手はいなくて)独りのこともあるだろうから、自分が独りで聴くレコードを大事にしてもいいんじゃないかと、なんとなく思ってしまう。それでは「佐藤さんの音楽が好き」なのではなくて「佐藤さんの作ったレコードが好きなだけ」ということなのか。両者はどう違うのか。レコードは音楽の本来的な聴き方ではなく、あくまで代替物なのか。レコードを聴いて音楽を聴いていると思いこむのは間違いなのか。

◎独りで聴いていた音楽をライブで聴くとどうなるのか

 そうして、いつも独りで聴いてきた音楽を、ライブで知らない人と聴いたらどんな感じがするだろう。「いつも独りだったけれど、ここには仲間がいる」と嬉しくなるような気もするし、周囲と共感したり共鳴することで喜びや感激が増幅するかもしれない。それとも、やはり独りで聴いている時ほど楽しめないのだろうかという不安もある。頭のなかでは爆笑しながらお花畑で鳩を追いかけるけれど、それを体現できるような度胸も覚悟もない。にやけた顔を隠すようにうつむき心の中でガッツポーズをとるくらいが関の山と思われる。

◎距離が近い

 佐藤さんの音楽を聴いていると、音楽が自分のすぐそばで鳴っているような気がする。そういう音楽がとても好きだ。たとえばニューウェーブとは関係ない、シンガーソングライターによる個人的な感じのする音楽やフォークやジャズボーカルその他諸々では、自分のすぐそばで鳴っているような感じのを好んだ。繊細に響く楽器の音色も、味わいのある伴奏やメロディも、息づかいが聴こえるような囁き声も、それら全部の要素が自分と作者との距離の近さを思わせる。ニューウェーブ的な作風でもローカルとか自主制作的なレコードでそういう風合いのがみられるけれど、やはり好ましい。
 佐藤さんの音楽は囁いてもいないし、味のあるメロディとも思われない、楽器は荒々しいけれど録音か鳴り方のせいで近く繊細に聴こえる。簡素な手作りの瑞々しさがそのまま現れた作りもインティメイトな印象をうける。自分が感じる佐藤さんの音楽の距離の近さとは何なのか。

◎距離という問題じゃないのかも知れない

 佐藤さんの音楽を聴いていると、他人の脳味噌を直に覗いているような感じがする。直に覗くということは自分が佐藤さんの音楽と重なっているからで、そうなるとむしろ距離がどうのという問題じゃないのかもしれない。なぜ他人の脳味噌を覗いているような感じがするかというと、佐藤さんの音楽の中で鳴っている音や言葉、起こっていることが自分の頭の中の有り様にとても似ている感じがするから。前のめりに脱臼したリズムや調子の外れた音色がああでもないこうでもないと性急に理想の状態をもとめてさまよう様子、じゃぎじゃぎと野趣をまき散らすギターのカッティング、全部やりなおしと言わんばかりに台無しにしていくチープなキーボードや、聴き手の集中力をそらすよう精妙にコントロールされた電子音の挿入、メインボーカル(本人)の主張を打ち消しひっくり返すようなコーラス、お花畑(コードや編曲)で鳩(メロディ)を追う願望や期待、こういうドタバタが普段の自分の頭の中の様子そのままという感じがする。

 (ひとまず頭から追い出せたので終わります。気が向いたら)つづく