また佐藤さんの話なんだけど、この前の2人の佐藤さんと別の3人目の佐藤さんのこと。

 最後に書き込んで以来、疲れたかめんどくさくなったか他の理由かでツイッターを見ていないのだけれど、なんとなく古い知り合いのつぶやきを遡って見ていて、あの特別なバンドが活動再開していることを知り、愕然とした。今ごろになって。
 (残されたレコードの事しか知らないのだけれど)ほんとうに自分にとっては特別なバンドだったから「もし活動再開するようなことがあれば、何がなんでも駆けつける」などと書いていたけれど、口ばかりでぜんぜんダメじゃねえか、なんで今ごろに知ってうろたえてるんだ俺は、どうしょうもねえ、嗚呼。。と、情けないような腹立たしいような、いろんな思いが同時に噴出し、なにがなんだかわけが分からない気分のまま固まった。きっと心の底では「もう活動再開などありえない」と考えていたんだろう。
 当たりまえだけれど、私がじっとしていても、世の中は動いている。私が好きだったものたちは、みんな消えたり、なくなったりしてしまうのだろうと、きっと無意識に決めつけていたし、そういうものなんだと慣れていた(むしろ消えてなくなるのを予感して、落ち着いた気分で好いたり思うことが出来たんだろうか?)。それがまさか、突然、手の届くところに蘇った。どうすればいいんだ。

 すっかりうろたえたまま、その再結成したライブを自分は観たいのか?、観たいのならなぜ観たいのか?と自問自答をくりかえした。およそ30年前のレコードで得た特別な感触が生で聴いてもそのとおりなのか、演奏し歌っている(生身の一人の人間の)佐藤さんの姿をこの眼で見てもやはり特別なままだろうか、そして、もし佐藤さんに声をかける勇気があれば、あのレコードがとても大好きで特別だったことを伝えたいのだろうか。
 ライブの一部を撮影した動画が上がっているのを見つけ、恐る恐る再生してみた。「なにをみにきたの、なにをみとどけにきたの、なにをみきわめにきたの」と、カメラから見切れたところから佐藤さんらしき人がこちらの思惑を見透かしたように歌っていた。 
 それは早朝だったので、起き出してきた人に「なんなんだよ、うるせえよ!」と怒鳴られた。その、聴き手に問いかけ続ける調子の歌が、起きぬけにはよけい気に触ったのかもしれない。その人はかつて佐藤さんの歌をともに聴き「やばいね、どうしてこんなに良いんだろうね」などと大いに語らい、手放しで賞賛しあった数少ない私の知り合いである。やはり同じ場所でじっとしているのは自分独りで、人の心も、世の中もみなうつろうものだと、あたりまえのことをまた突きつけられ、しみじみとした。



 早朝。公園のベンチで喫煙。原っぱの彼方の黒い木立や茂みから点のように現れる歩行者の影が伸びてゆき、やがて人型の輪郭が浮かぶのを、それが枯れた芝生の圧倒的な黄金の輝きに押されるようにして中原をわたり、こちらに向かってくるのを、斜めに視界から消えていくのを長い間じつと見送る。やはり佐藤さんに関するもろもろの思いが頭にうずまき離れなかった。こんな晴れわたった朝の大きな原っぱに、なにをみにきたの、なにをみとどけにきたの、なにをみきわめにきたの。
 澄んだ朝の空気にふれ、心のもやが晴れたような気もしたが、それはただ、佐藤さんに対するわけの分からないぐちゃぐちゃにこんがらがった思いの塊が、前よりよけい明確に眼の前すぐ近くにくっきり浮かび上がっただけな気がした。

 観たければ観にいけばいい簡単なこと。なにが躊躇させるんだろう。何よりもすぐに気づいて公開練習から観れなかったという自責や後悔だろうか。それとも、いつぞやの「カレーライスやハヤシライスの表面に浮かぶ油分が描く緻密な模様にでも見とれていればいいんだ俺みたいなもんは!」というヤケクソな気分なのだろうか。
 鳥の声だけがひびく森に入るとまだ低い陽が鋭角に射しこみ、道の先に何本も何本も光線のテープをかける。それが舞いおちる枯葉を射抜き中空で音もなく燃やすたび時間がとまるので、自分の歩行と視界のうつろいはコマ送りだった。


 帰宅し、人様の古い日記を読んだ。頭の中がぐちゃぐちゃで何も手につかないので、いったんそれらを追い出すためになにか読まずにいられなかった。iydさんのだと少し気分的に優しすぎるのと、なんだかよけいに頭が混乱しそうだったので、へ先生の古い日記をアーカイブからめちゃくちゃに選び、長い時間をかけてめちゃくちゃに読んだ。
 犬がうんこをしている写真や、カレーの一生、ちんちん電車と添い寝していた頃の写真と話、ひどく酔いつぶれて迎えた数えきれない朝の話、服や頭痛薬をねずみが齧らないようピーマンの切れ端を供える話、そして朝の光につつまれて全世界に対してくり返しくり返しくり返し挨拶をし続けるへ先生の居住まいと底知れぬほほえみと言葉、鍋底にこびりつき固まった飯の残骸を金タワシでごりごりこすり落とすというような長い長い話をえんえんと読み続けた。頭の中のぐちゃぐちゃと心細さを追い出すように、なにか自分が本来そうあるべきような姿や感覚、無目的な生のようなものをへ先生の筆致を通して追体験するように、ワラにもすがるような気持ちで、周回遅れの自分のすぐ横を走る(はるか先をゆく)人影に寄りそおうとした。