フレッシュデッド

 貝殻収集家という人の話を聞いていた。私が子供の頃にどこかの海辺のみやげ屋で買った貝殻は「タカラガイ」という名前らしい。タカラガイにもいろいろな種類があって、その人の図鑑によると、私のは「ヒョウダカラ」か「ホシダカラ」のように思えた。
 水の中の生きている貝の貝殻が一番つやがあって、死んでいる貝殻をいくら磨いてみても生きている貝殻のつやにはかなわないという。生きている貝は外套膜というので包まれていて、それで貝殻が絶えず保護、再生されるせいでつやつやなのだという。そして貝殻収集家の間には「FD」という符牒があって、それは「フレッシュ・デッド」の略で、貝が死んですぐの貝殻、収集家が無機物として手に出来る最高につやつやした状態をそう呼ぶのだという。

 そういえばいつだか、ツイッターに刻々と流れてくる駄洒落やら駄洒落じゃない言葉を眺め、人の声が言葉となる様が、生物がつくる無機物(バイオミネラリゼーション/生体鉱物形成作用)みたいに感じたのを思い出した。拾い上げてはためつすがめつ感触をたしかめてみたりして、気に入った駄洒落や駄洒落じゃない言葉たちがきれいな貝殻のように思えた。あの浜辺にどんどん流れつく駄洒落や駄洒落じゃない言葉たちも、いわゆるフレッシュ・デッドだったのだろうか。
 声と唄と文字の3つで説明すると、声が言葉とか文法へ定着し、かたちをもつと文字になります。かたちに定着せず、かといって解体/遊離へ向かうわけでもない声が、唄になります。唄がうたわれるたび、フレッシュ・デッドな状態の声がそこに生まれるので、貝に口と書いて唄と書くのだそうです。それぞれ唄のテンポに合わせて順番に頭の中にぺたぺたと貼りついていく唄のことばはフレッシュ・デッドと言えるのです。貝殻収集家がわけの分からない話をするので、「へえ、そりゃたいへんだ」と思うと眼がさめた。



 ふとんの中の自分がぐずぐずと煮えるスープのように感じられ、スープ表面の灰汁をすくうように夢のことを思い出す。けっきょく寝付けないのでそのまま出かけた。いつもより早く出たので遠くの街まで。晴天なうえ陽が高くて眩しい。
 霊園そば路地裏のひっそりした公園は風が強くふいていた。乾いたつむじ風に落ち葉やたくさんの赤い実がぐるぐる踊るのを、缶コーヒーを飲みながら眺めた。ちんちん電車が走る路地では「あの日記の人がむかし住んでいた家かねえ」という話になった。目的地についたころはまだ明るかったけれど、観たかった路地はきれいさっぱり無くなっていた。よく食べたつけ麺屋も無くなっていた。帰りはいつも幹線道路のルートを選ぶせいで無意識に自転車を早くこいでしまう、そうすると寒かったり疲れるのでなるべくダラダラ走るようにする。夜に帰宅し写真を見てみると、すっと強い外光でカメラのモニタの絵がよく見えてなかったり、寝不足でずっと頭がぼーっとしていたせいか、ぜんぶ丸ごと幻だったように思えた。サッカーの試合をいくつか眺めたあと死んだように眠る間際は、雨の音がしていた。