ひとのせい


 そういえば子供の頃「ひとのせいにしてはいけません」と習ってきたけど、自分の日記はずっと「知らない奴がいる」だの「ほんとうに私の意識なのか?」だの、けっきょく自分の都合次第で、いろいろ書いたところで全部手の込んだ「人のせい」じゃねえかいい加減にしろと思った。
 去年の、昨日の、一時間前の、一分前の自分の意識は自分なのか、他人なのか、他人みたいに思える自分もひっくるめてぜんぶ自分なのか?と、子供のころに戻って素直な気持ちで先生に尋ねたい。食堂を出たあと、空き地で夜明けの光を眺めながらそう思い呆然としていた。

 夢にミートソースのスパゲティが出てきたので、一昨日の夜はスパゲティを茹でた。今日の未明は駅前の食堂で定食を食べていた。上着のポケットから小さくたたんだ千円札が出てきて、それは前に実家帰省した際、某の代金のつり銭を「たばこでも買いなさいよ」と母がくれたものだった。そのたたまれた千円札をひろげてしわを伸ばし財布に入れようとしたとき、しみじみとなんとも言えない気分になった。子供のころ、旅行先で家から持っていったお菓子やらなにやらのゴミを捨てるとき「嗚呼、このお菓子の箱やら飴の包み紙は何十キロも離れた知らない土地に置き去りにされるのか」と無性に切なくなったりした、あのわけの分からない感受性(というか、誰でもある子供心というやつなのか)を思い出した。
 旅先で飴の包み紙を捨てるたびにうすら切ない気分になっていたころの自分、夢にミートソーススパゲティが出てきたので愚直にスパゲティを茹でていた時の自分、駅前の食堂で小さくたたまれた千円札をひろげていたときの自分、それらはぜんぶちゃんと自分の意識なのか。いま思い出して書いている自分からすると、ぜんぶが人ごとのように思えてわけが分からなくなる。なにか書いたり考えたりしようと立ち止まると、意識がおかしくなる。立ち止まるだけではなく、いちいち背伸びしたり無理をして不自然に歪むから、動いて流れている普段の意識が他人ごとに感じられてしまうのか。
 書いているときも普段どおりの自然な意識で、いつも自分がちゃんと自分という責任感があって、「夢に出てきたからミートソーススパゲティを作って食ったうまかった」で日記を終わらせられる人はえらいし大人だと思う。