わたしと女と鮫に喰われた娘


 いちばん身近な人との思い出の歌はたくさんあるような気がするけれど、思えばどれも私が勝手にさし出したものばかりで、本当にふたりの思い出なのか分からない。
 相手に、勝手にあれこれ差し出すようになるより遥かむかし、その歌ははっきりと相手のもので、そのひとの部屋で耳を傾けた。歌は相手と私のちょうど真ん中にあった。私だけの思い出でも、相手だけの思い出だけでもなく、ふたりの思い出と呼べる歌がほかに思いつかない。
 駅から離れた町外れのアパートに女は住んでいた。窓際の畳におちる遅い午後の光。うすぼけたネズミ色の絨毯の上の型落ちのゲーム機のなかで、CDが回りはじめる。その情景を今ふりかえると、なにもない部屋でなにもないような歌が鳴っていたように感じるけれど、当時はそれが「なにもないこと」などとは感じていなかった。今のうつろな心が、あのころの情景を「なにもない」と感じるだけ。
 なにもない心の中の、なにもない部屋の、なにもない歌。まんなかで歌が再生されるたび、歌を中心に同心円状の虚しい入れ子構造が浮かび上がる。

 「なにもない」ことが普通で満ち足りていたあの時だけ、あの歌のながれるあの部屋には「ぜんぶあった」のかもしれない。ただ、もうはるか遠く手が届かないからそう思いたいだけなんだろうか。思わないときは「ぜんぶある」。思うとき、思う数だけ「なにもない」し、とどかないことを思い知る。






ほんとにサメが食べたのか ほんとにサメが食べたのか
だれも知らない だれも知らない