まぼろしの入出力

 斉藤清六の「ぎんぎらぎんにさりげなく」とキャバレーボルテールの(半端に)電化ダンスポップ化した80年代中期のライブ版*1とをミックスしようとするが環境がないので、頭の中でどうにかしようとしていると瞼の裏にうっすらと明かりがさし、ぼんやりした情景が浮かび上がる。しだいに焦点が距離を探り像を結ぶ。
 高層ビルの上層階に、値段ばかり高そうな胡散臭いドメスティックブランド?の服屋があって、私と昔の会社の同僚とその友人と私の母で洋服をみている。ミリタリーモチーフという裾が切りっぱなしの簡素な暗色の長いジャケット、肌着みたいな白いTシャツ、ビロードのような光沢とドレープ感の袴のような形のパンツ。私の持ち物ではない見覚えのない服を着ている。店のディスプレイ用の書籍、表も裏も背も紅白の太いバイアスストライプだけで一切文字のない装丁の写真集だか画集を、背中と腰のくぼみとパンツの間に隠して盗もうとする。店を出てフロア奥のトイレにつづく通路は片面がガラス張りで、曇り空と眼下には街が広がっている。時間にしては薄暗く見えるが、ガラスにそういう色が入っているのか雨が降りそうなのか分からない。
 同僚とその友人と私の母という取り合わせがどう考えても納得出来ないというか(夢に出てくる人達は大抵脈絡なく想定外の方が多いけれど、それでもなにか)黒板を爪で引っ掻くような銀紙を奥歯で噛むような、どうしてこうなるかな?という、ものすごい嫌悪感。

 夢の中に出てくる人は知っている人と知らない人が半々くらいな気がする。現実よりはるかにフォーカス範囲が狭く、焦点を合わせていないところに情報量は何もないのだろうけれど、台本の「群衆」みたいな扱いで出てくるのを入れると知らない人はもっと多くなる。そもそも夢の光景を視覚的に認識しているのか、台本を読むように筋がダイレクトで頭に入ってきているのか怪しい。だけども、最初から相手を「知らない人」と認識しているときもあれば、知らない人か知り合いか顔や様子をしばらく観察している感覚の時もあるので、そういう時は一応視覚で入力されているのかな(あるいは「しばらく見て判断した」という台本のト書きを読んでいるのか?)とも思う。
 現実で、なんとなく初めて会うような気がしない人がいるけれど、ひょっとして先に夢のなかで会っていたりしたら面白いなと思った。
 、、、そもそも夢を観ることや幻視は入力なのか出力なのか。