ヨナ


 日曜日の夕方、ふとんで寝ていた。うつらうつらしつつ、暑苦しくて寝付けず何度も寝返りうち、ふとんをはいだりかけたりした。外では昼間の熱気の余韻がじりじりと渦巻いているように感じられた。ときおり列車が通りすぎ、レールの継ぎ目を踏むたび、ガタンゴトンと巨大な体積の突進を周囲の空間に誇示するかのように響かせる。それに押し広げられた熱気がまた複雑に渦巻くような気配がし、鳥がそのへんに飛んできてはギャアギャア啼いて飛び去った。朝に食べたカレーが腹の底でもたれ、ひっきりなしに内と外からやってくる圧力を感じながら、夢と現の間でゴロゴロしていた。

 そうしていると、子供の頃に読み聴かされた「大きな魚にのまれたヨナ」という絵本のことを、数十年ぶりに突如思いだした。「小さなお家」や「月のぼうや」など、しょっちゅう思いだす絵本もあれば、何十年も忘れている絵本もあるんだなと、あたりまえのことだけれど不思議な気分がした。
 私はふとんの中で、大きな魚の腹の中で横たわってじっとしているヨナ(主人公)の気分のことを考えていた。なぜだか今ならそれが分かるような気がしたからだ。それからどのページも幻想的で息苦しいような挿絵のこと。乾燥地帯に乗り捨てられたヨナのロバのことも思いだした。肝心の話のすじはほとんど思いだせない。ただ「立てヨナ。立ってニネベの街へゆけ。」という神様の台詞だけが、その絵本を私に読み聞かせていた母か父か叔母か、あるいはそれらが全部混ざり合ったような声色で天井から降ってくるように感じられた。
 ヨナがどうやって大きな魚に飲まれ、それからどうなったのか、今ではぜんぜん思い出せないけれど、ふとんの中でじっとしている自分がヨナなのだと突然思い込んでしまった。

 いい歳をして初恋の人のことを時折思い出す。二、三年に一度は夢にまで出てくる。いま思えばその人がどんな人かだなんて当時はほとんど知らないのに、特別な理由もなく些細なことから、なぜか心に住み着いてしまっているのだ。
 そういう事故みたいな意味合いにおいて初恋を考えると、私の恋人もどこかの誰かの初恋の相手かも知れないし、私自身もどこかの誰かの初恋の相手かも知れないし、今これを読まれているあなたもどこかの誰かの初恋の相手かも知れないし、今まで私が知り合ってきた人たちみんなそれぞれが、どこかの誰かの初恋の相手かも知れないし、私があまり親しく出来なかった人も、はっきり言って嫌いだった人たちも、どこかの誰かの初恋の相手かも知れない。
 つまり、いきなりこういうことを思って、嗚呼。。などといちいちわけの分からない気分に浸ってしまう自分が、大きな魚に飲まれたヨナという気がするのだ。
 そういうことが許されるのは若い頃だけで、はっきり言って、そんなことを考えてもどうしょうもないし、なにが楽しくてなにが面白くてなんのために生きているだとか考えるな、とにかく生きるために、どうにか生き残るために、自分という豚を飼うために生きろ!と言ってくる人たちも、どこかの誰かの初恋の相手かも知れないのだ。
 最終的にヨナがどうなったのか、私がこれからどうなるのかも、思いだせない。



Illustrations by Helga Aichinger for Jonah and the Great Fish by Clyde Robert Bulla (Crowell, 1970).
http://www.50watts.com/Forgotten-Illustrator-Helga-Aichinger-2