知らない色の名前

 いろいろ見て廻ったり、ここに書いたりする習慣も途切れてしまった。今日はなぜか、なんとなく。
 いろいろあったけれど、前と同じように、同じところでうろうろして暮らしている。いろいろ決断を迫られた結果、同じところでうろうろすることを決めた。前よりも本格的に、ただうろうろしている気がする。。

 夜明け前に食堂で牛丼を食べた。いつもと違う年配の店員。声も動作も無駄がなくて厳しい職人のような佇まい。いつもより丼の肉と汁が多い、だから味が濃い。明け方にここで牛丼を食べると煮込みが甘いのか葱の食感が強くて好みなのだけれど、今日は朝からグデグデに煮込まれている。誰もいないし見ていないけれど職人のような店員の所作に影響され、ふと気づくと若干いつもと違う居住まいで、誠実なような顔をして食べている。
 缶コーヒーを買い、満腹に楊枝をくわえて自転車でいつもと同じ緑道まで。昔から、こうしている時が一番いい気分だったような気がする。手にレコードの袋があったり無かったりしたけれど。
 あけてゆく東の空をながめる。地平の方から黄色っぽく、夜空の群青色がぬけていく。小さな街の影絵の上で、巨大な夜の色がゆっくり溶けて流れてゆく。そのあたりの色はなんて名前なのだろう、みたいなことを思いながら、ただ呆然とする。なにかを感じているような気もするけれど、なにも感じてないような気もする。名前を知らない色や気持ちは本当なのか、気のせいなのか。名前を知っていても、なるほどねー、などと、なんとなく納得したような気になっているだけな気もする。
 ずっと呆然としている、という自覚がある。では、自分が一番最後に呆然としていなかったときのこと、その時の感じ、考え方を、思い出そうとしているけれど、、考えれば考えるほど、どうにもおぼつかない。

 198x年の音楽雑誌が便所にあって(その号に思い入れがある、とかではなく、昔たまたま古本屋で買ってなんとなくその辺に散らかしてある中の一冊なのだけれど)、ある評論家先生が「(芸術)文化行政なんてくそくらえ」ということを書いているのを読んだ。ただ呆然としている自分には難しかったり理解が及ばない「くそくらえだな」と、うんこをしながら思った。正直に書くと、その評論家が去年自殺されたことがあり、なんだか一段と印象に残っていた。
 緑道で、夜明けの名前を知らない空の色を眺めながら、その記事を読み難しくて分からなかった感じをふと思い出した。その先生の考えていた自分には分からないこと難しいこと高級なこと、そういうのは、あの空の色の名前のようだと、ふと思った。