他人の青春

 ヘ先生があのアパートから引っ越すという日記を読んだ。すぐに思い出したのはやんご先生著の「ぐっべい青春」で、「ぐっべい青春」はワケあってテキストを何度も読み返したり再構成したこともあって強く心に刻まれているものだから、へ先生の引っ越しの文章とやんご先生の「ぐっべい青春」を無意識に比べたりしながら読んでいた。そのあとになってやっと、自分がかつて引き払った部屋のことなどを思い出したりした。
 自分のそれの方は際立った思い出もない、ごくごく平凡な部屋と数年間だった。なんとなくウスラかなしいような虚しいような気分を引きずりつつ慌ただしく越した気がして、どうも印象が薄い。だからやはり先に他人(やんご先生)の引っ越しのことを思い出したし、そういう他人の言葉に自分の引っ越しの気分を映し、なにかじわじわと胸に迫るようなあの時の感じを思い出していた。
 数日前に初めてへ先生の夢をみた。知り合いと自転車で○○大学の図書室へ通じるロビーのような回廊を自転車で走っていた。ぼんやりした象牙色の薄明かりを反射するつるつるした回廊の壁にさまざまな展示物があって、想像してたより小柄に見えるヘ先生がそれをじっと独りで眺めていた。私と知り合いは自転車でいったん通りすぎたあと、ふりむき「あれはヘ先生だよね」ということを無言で確認しあった。数日遅れでへ先生の日記を読んだので、ああちょうど自分があの夢をみた頃の引っ越しだったんじゃないか、虫の知らせじゃないかと(勝手に)奇遇に感じた。

 某日。某氏からのメールのお陰でとある方の引退放送というのを聞いた。自分はわざわざ引退宣言するような方の放送を聴いてこなかったようで、思えばそういう意図された最終回にはずっと縁がなかった。途中まで聴いてあとは録音し、まだ全部聴いていない。そのことについてもいろいろ感じたり思ったり言いたいことがあるような気がするのだけれど、どうも考え(伝え方?)がまとまらない。
 本当にその方がそれで終わりにするのかは定かではないけれど、もし仮に完結するのだとしたら放送した数年間の思い出はその方の青春の一部と呼べるものとして、その方の心の中でだんだんとそれらしい思い出になっていくのかしら、などとなるたけ冷静に客観視しようと距離をとるほどになんだか薄情な感じに漠然と考えてしまった。多分「青春」という言葉が出てくるへ先生ややんご先生の作文のことを考えるうち、じゃあ私の青春てなんなんだ?という自問が頭の中でぐるぐるして、どうもなんだかわけの分からない気分だったから、ついついそんなふうに考えてしまった気がした。
 他人の胸中や諸々の事情は分からないからなのか、他人の青春はすっきりみえる気がする。その人の中で「こんなもん青春と認められるかクソ!」というような思い出でも、他人からしたら青春にしか見えなかったりするけど、やはり自分自身の青春は全然見えないし、分からないし、やはり認められるかクソ!と思う。
 青春を生きている自分がいつか他人になったとき、その時に自分の青春のこともすっきりと見えてくるんだろか。