かものはしみたいな手袋とレイドバック

 昨日、イヤダさんの日記を読んでいて感じたこと。
「おばちゃんに手袋をほめられた。かものはしかとおもった、だって。」というような雰囲気の文章を読むたび、いいなあと思うと同時に、細野さんの「HOSONO HOUSE」に関する評論みたいなの(というか、なんか説明みたいなやつ)が頭をよぎる。べつになにか特別な大袈裟なアレじゃなく、そこいらへんの音楽雑誌なんかによく書かれてるようなこと。はっぴぃえんどの時代があってその後の田舎に遁世してどうのこうのみたいな言い方。よく分からんけども「レイドバック」がどうのみたいなやつ。そういうのを読むたび、まあそれはそうなんだろうけれど、なんかしっくり来ねえな引っかかるな、、という気分になるのだけれど、イヤダさんの「おばちゃんに手袋をほめられた。かものはしかとおもった」みたいな文章に当たるたびに、そのひっかかる感覚をなぜか思い出す。
 なんかややこしい書き方になっちゃったけど、平たく申せば「良いと思うんだけど何が良いんだかさっぱり分からねえなあ(自分の感覚や意識のどういう部分がどういう段階で受けとめて良いと感じているのか、ものすごく曖昧な感じがする)。だけどこの腑に落ちない感じはなんだか他でも味わったことがあるよなあ」ということなのだと思う。

 どうにも「レイドバック」というのがまるっきりおぼつかないのでググってみると某作家さんの「もう完全にレイドバックしている。どうだ、ざまあ見ろと思う。誰に向かってそう思っているのかは僕にも完全にはわからないけど、なんとなくざまあ見ろ的な不敵な気分になってしまうのだ。」という文章に当たり、なんだか気になった。レイドバックという感覚の中でこの「ざまあ見ろ的な不敵な気分」というのはなにか重要な要素のかしら。もしそうだとしたらイヤダさんの「おばちゃんに手袋をほめられた。かものはしかとおもった」を読んで自分が受けとめる心地よさみたいなものは、世に言うレイドバックというアレなのかもしれないなあ。。などと相変わらず埒のあかないようなことをボサボサと考えたりしていた。