きわ。定規のまん中


●不安定な印象のものが美しいなと感じることが多い。また、なにかとなにかの際(きわ)にあるようなやつが美しいとか好きだと感じたりすることが多い。この二つの個人的な嗜好を並べて考えてみたことがなかったけど、ひょっとして同じことなのかなあと考えていた。 
●なにかとなにかの際にあるようなやつ、ある感覚の定規のちょうど真ん中にあるやつは、両側(定規の両極)のなにかとなにかのことをワタスに気づかせたり意識させてくれるところがいい。
●前にタンブラで拾った、この少女の画像がずっと気になっていた。2011年12月12日現在のリアクションの数を見てみると461件となっている。果たしてこれはエロとして支持されてるのかアートとして支持されているのか、もっと他の理由で支持されているのか、というのも気になる点のひとつだった。ワタス的にこれは芸術的な興味でリブログしたので、これがワタスの中で「エロとアートの際にあるように見えるから」という理由で良いと感じているわけではないはずなのだけれど、じゃあなんで良いのか?と問われるとうまい言葉が出てこない。
●なぜ芸術的な興味なのかと問われれば、単純に写真の方法として興味を持ったからなんだけど、ワタス自身の芸術やら写真の方法への興味とエロス(または猥雑さ)というものが簡単に切り離せるもの(たがいに対立するような事項)なのか、どこかで根深いところで通低してしかるべきもんじゃないのか?と問われると、どうもそのへんの細かいところは考えてない。また別の方向から言えば、ワタス的にエロとして支持したい画像をこのようにシェアしたり誰かと価値観を共有して喜びたいなどという欲求は持ち得ない、そういう感覚は理解できないからエロ目的ではないと判断した。何度か書いた気もするけど、人と共有した(ことを相互で確認しあった)時点で、その供物(エロ)はワタスにとって神聖な効力を失う。儀式において共有したことを確認しあったそいつの顔(あるいは声、文章)が出てくるからだ。供物とワタスはいつも一対一でなければならない。
●もういちど、「なにかとなにかの際だから良い」という考えに則って、この画像を眺めてみる。その「なにかとなにか」はいったいどんな定規の両極なのだろう。スナップ写真と写真芸術(表現)の際。少女と女の際。安定と不安定の際(なにか、もっと大きい写真をトリミングしたような不自然な構図にも見える)。躍動と静寂の際。思いつくまま定規を想像する。どの定規に置いてみてもわりと際(まん中)にあるような気がする。またそうでもないような気もする。分かりそうで分からない。ひょっとして、分かるのと分からないの際? でもこうして消費できない(分かった気にならない)まま、数ヶ月飽きずに眺めているわけだから、べつに際というわけでもないのだろうか。
●定規は見る人の数だけある。たまたまワタスの定規では両極から一番遠いところ、両者の際にあるというだけで、どんなものがどんな定規の際に置けるかという感じ方は人ぞれぞれだと思う。
●なにかとなにかの際にあるやつは線の上にある。色んななにかとなにかの際にあるやつは線が交差する点のうえにぎりぎりで立っている。点の上だからもっと危ういし儚い。「清六のギンギラギン」もそういう感じがするのでとても美しい。「清六のギンギラギン」を聴くと、ワタスが好きで聴いていた他のもののほとんどが息苦しく感じられる。