とり肉を移動する幸いの方法


 某日よる。「よし、最初から最後までちゃんとラピュタを観てみよう」と心に決めたけれど、途中で米を研ぎはじめてしまい、特に好きな序盤の町中での活劇がちゃんと観れなかった気がする。
 某日よる。月食だそう。ちょうど食事に出たので空を見上げると月が赤っぽくなっていた。目が悪いのでどうも何がどうなっているのかよく分からなかった。夜道を自転車で走っていくと黒い大きいのがいっぱい道に落ちている。近づくと、この寒いのに道に寝転んで月を見ている若者たちだった。自分も目がちゃんと見えて月食のほうを気にして運転していたら轢いていただろうなあ。また揚げた鶏肉を食うなど。それからまた場末にて缶コーヒーを飲んだ。「月食日蝕はどっちがパンチがあるか」などという子供の喧嘩みたいな話になった。


 某日よる。停電する食堂で食事。近頃はぜんぜん停電しないのでちょっと物足りない。手袋をしたままコップを取ろうとして二つ割った。焼いた牛肉が米の上に満載された上に溶解した乾酪および粉末状の別の乾酪がアレされたものを食うなど。公園まで脚をのばすには寒いということで、帰り道の緑道で缶コーヒーを飲んだ。街の灯を反射する雲のない夜空がとても黒い。月の光が妙に力強くて暗室にあいた穴ぼこのようだった。
 某日。ヂョさんの日記に大喜利のことがあって、つい気になってサイトの過去ログを見にいってしまうなど。2、3年ぶりに覗いたけれどぜんぜん変わってなくて懐かしかった。数回やってみたけどいちばんは取れなかった。
 少し前に、やんご先生がジョギングしながらラジオをしているのを聴いた。ずっとハァハァ言っていてモヤモヤした気分になった。やんご先生はフーさんの好きな高田渡のことを気にしたり好きになろうとしているように見えるのに、ワタスはアケビのことは本当にどうでもよくて、やんご先生の話すアケビの話がぎりぎり聴けるくらいだから、ダメなやつだなと思った。


 mgnさんが色んなものを集めたり観察するのは所謂モデルノロヂオ(考現学)と捉えるとしっくりくる、などとふと思った。トマソンも似たようなもんだけど内容はともかく「トマソン」という響きがワタスはなぜか昔から嫌いだ。それに比べて「モデルノロヂオ」という響きは悪くないし、なんだかmgnさんっぽい感じもする。エスペラント語というのもなんとなくmgnさんぽい気もするし、ワタスの知っている人物のなかで最もコスモポリタンな感じがするのもmgnさんだ。あの日記と、いろいろな割れたガラスをスケッチして記録していくようななんか儚い感じもぴったりくる気がした。


 小川さんの配信録画を観た。まず後ろに早瀬さんのレコードが飾ってあるのが魂消た。というのもワタスが鶏肉と早瀬優香子を撮ったのは数日前のことだからで、なんなんだこのスンクロニステーはと思った。ある夜、冷蔵庫に入っている鶏肉がものすごく食いたくなって皿に出してチンした。その鶏肉を眺めていたら「これに似合うレコードジャケットってなんだろうな」とふと思って撮影したのが今回の写真である。それで意味もなく日記を挟んでみた。あと確かに小川さんの自転車から撮影した隅田川秋葉原の映像は酔った。
 そう言えばツイッターの方では「貝がらがどうの」と相変わらず寝言みたいなことをつぶやいている。小川さんは「貝になりたい」などと嫌味なことは言わない。されど配信途中から海の底の貝のように押し黙り、ただ黙々と貝ヒモを貪り食うのがアーティスト小川直人の流儀であり、言葉なきメッセージなのである。などと考えていたら、その日は柿ピーだった。
 ツイッターと言えば、ちんこちんこ的な連呼についてつぶやいたら数秒差で「ちんげパーマ」というチャーミングなつぶやきが流れてきて、それにも運命的なものを感じた。あとあと油田と引き換えになるかも知れないので、大切に保管することにした。「現地にいます」という言葉を逆さにすると「住まいにちんげ」であるという、遠い昔に何かで触れた失われた記憶が猛スピードで浮上し、また静かに沼に沈んでいくのを見送った。


 真夜中の公園で缶コーヒーとたばこ。なにか考え事をするはずが、「寒い寒い」とか「ケツが冷たい」とかいうのに頭の中が占領されてどうも集中出来なかった。「帰りにいつもの飴買おう」とか「砂糖切れてたから買わないと」とか、そういうことが寒い寒いの大行進のなかでなんとか捕まえられるくらいだった。
 「つぶやき」というのの定義はきっとややこしい気がするので、とりあえずざっくりと「気軽な言葉」としてみる。気軽な言葉の逆が「気軽でない言葉」として、気軽じゃない言葉がどんなもんかとイメージすると「明日死ぬとして、残された一晩のうちに自分の子供にどんな言葉を残すか(子供はいないので想像で)」みたいな状況下での言葉が気軽でないように思われた。そういう感じの言葉だけがTLに流れてきたらどうなんだろう、すばらしいのかな、息苦しいのかな。つうかそんなの見る側の意識の問題じゃん、電気の向こうに何があるかなんて分からない、不治の病の重病人かも知れないし、アラブの石油王かも知れない、botかも知れないし、人じゃないかも知れない。そんな気分で当たってみれば「ちんこちんこ」は悪くないか寧ろホッとするかなどと考えながら、商店で飴と砂糖と泥の味のするコーヒーなどを忘れずに買って帰宅した。