たちよみ


 某日。よふけ。だいぶ冷え込む。サッカー観戦のハーフタイム中に米を研ぎ炊飯ボタンを押すとちょうど試合終了くらいに米が炊きあがる。炊きあがる時間に合わせてレトルトのビーフシチューを湯せんにかける。湯気がたくさん出るよう窓をあけて冷たい外気を入れる。炊いた米をうつわに盛り、シチューをかける。湯気をあげているところをベンさん夫妻を背景に記念撮影する。けっきょく湯気はぜんぜん映らなかった。
 ちかごろ、ワタスが好きで読んでいる日記がじゃかすか更新されるので嬉しい。読みながら食べる。食後に淹れた暖かい珈琲を飲んでいるうち、眼の裏側から眠気が弱く押してきて、油断すると眼球がひっくりかえり目の前が暗転する。

 某日。午后に人に会う。食事、長いはなし、珈琲、食品街の人ごみ、割高な海鮮サラダ。駅の改札、あの背中が人ごみに飲込まれるまで、どうにもならないような気分で見送る。いつも同じ気分で眺める。地階に出るとゆうがたの匂いがして、地平近くが黄色くはれぼったく膨張し街を包もうとしていた。
 公園で缶コーヒーを飲みながら、へ先生の日記の「あとがき」のことを思い出し、帰りに某誌の連載のつづきを読もうときめる。またわけもなく決然と「ワタスは固い決意で立ち読みをするぞ、テコでも動かん」という気分で商店へゆく。頁をめくり機械的に文字を数える15×64の960ワード。それからひと呼吸おき、いざ読んでみる。
 今回は一回でなにが書いてあるのかおおよそ理解出来た。念のため、二度三度四度と読みかえす。「鉄路」という言葉は聞き慣れないだとか些末なことを除けば、とても分かりやすい文章のように読めた。なにかおかしい。なんだか釈然としないので、勘違いしていたり、意味があやふやなようなところがないかと、くり返し読む。「鉄路」のところと「暗い部屋を深海のように思い」と「人が海に沈み、ばらばらになって魚や蟹に食われる」というところが熱を帯びているような、なにかがあるような感じがして、とくに集中して立ち読む。けっきょく十分くらいがんばってみて、それから化粧が濃くて愛想のいいおばちゃんからたばこを買い店をでた。通りはちょうど日が沈む間際で、家路を急ぐ人影やら列をなすテールランプの赤い光ばかりが切ないような抽象のまま眼にとびこみ意味が分離しない。上空では淡い残照と群青色の宵闇を冷たい大きな風がびゅうびゅうと撹拌していた。
 帰り道。ボロ布をつかったクリスマスの飾り付けが、水害の後の枯れ朽ちた木々や流木のように、ボルタンスキーの古着のインスタレーションのように、なにやら重苦しく見えた。

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 帰宅して録音していたラジオをまとめ聴くなど。それから小川さんの放送を生で聴いた。
 例の鏡のような川のほとりにて。痰壷に痰をとばすように吐かれる言葉。(ある面での)ネットの言葉。そういうことに対して自分はいったいどういう気分や心構えで向かい合ってきたのか、などということばかりがなぜか頭をよぎる。大切な人や尊敬する人に語りかけるような気持ちがどのくらいあっただろうか。ネットがどうとか誰のためとかいう話ではない、それはまず自分のためだ。ラジオで喋った頃、へんなお絵描きごっこをしてみた頃、躁状態でふざけたり、心が沈んで暗い寝言を書き散らかしたりした頃、その折々にアタスはどのくらい誠実でいれたのだろう?というようなことが、しきりに思い返される。誠実ってなんだ。ほんとうに誠実であろうとする人は「誠実」なんて言葉は軽々しく使わないものなのか。