タケダーとカネラー


 某日。便所でなにかを読んでいた。ワタスの家の便所にある読めるものといえば、古本屋で二足三文で売られているような大昔の音楽雑誌やら何かの文庫本やら便所紙の包装紙の成分表記くらいなので、おそらくそのどれかを読んでいた。ふと顔をあげると開けはなったドアの向こうの玄関の大きな姿見に便所に座るワタスが映っていて、ワタスはワタスで、見慣れたようなワタスなんだけれど、それと同時に得体の知れない不思議な生き物のようにも見えて、なんなんだこいつは。。と物珍しいような気分で眺めた。どう見てもワタスなんだけれども。

 ワタスが好きで読んでいる日記に武田百合子の言葉が引用されていた。「美しい」という言葉を簡単につかわない、という話。それを読んでワタス自身はどうだろうかと思い返していた。そこにあった作例の「美しい景色」とか「美しい心」という類いの使い方はあまりした覚えはないけれど、「美しい」という言葉はとにかくやたらと使う。使いたいし、喜怒哀楽を問わずなにかにつけて、ワタスにとって少しでも新鮮に思えた物/事に対して、なにかと「美しい」と感じたい、「美しい」こととして受け入れたいという気持ちがある。まだ自分に未知のなにかの美しさに気づきたい、そのようにワタスの感覚を開発、拡張してくれるものがワタスにとっての「美しい」ことという考えがしっくりと心に馴染むからだ。
 ワタスは武田百合子のことを考えると詩人の金子光晴のことを芋づる式に思う。まったく無関係なんだけど完全に個人的な理由でつながっている。この二人はプロアマ問わず私が好きな文章家の方々が「尊敬する/或は特別な文章家」としてやたらと名前を挙げるからだ。そしてそのすごさみたいなのがワタスにはあんまり分かってない、実感できていないという点でも共通している。
 武田百合子の「富士日記」やらその手のエッセイは20代の初めに手にして読むようになった。面白く読めるのだけれど、なにがすごいのか、なんだかよく分かっていない。むしろ「武田百合子がすげえ」と書いていたワタスの好きな小説家やらライターの賛辞の文章のほうが面白くて印象的で、ワタスはその人たちの気持ちや感受性をただなぞっているだけで、自分自身が本当に武田百合子の文章を良いとかすごいと思っているように感じられない。なんか実感みたいなもんがない。ワタスが鈍感で未熟であるから感受性が追いついてないのだと思う。

 金子光晴の名を知ったのは中学生のころだった。ワタスが一番好きな作家が「金子光晴を読まないと、あなたが生涯で得るはずの恋人を最低二人は失う」「さらにもう一冊金子光晴を読めば、恋人がもう一人ふえる。しかもそれは質の高い恋人です」などとという書き方で賞賛していた。中学生のワタスにはそれがどういうことなのかぜんぜんピンと来なかったけれど、きっとその人なりの最大級の賛辞なのだろうなあというような気配は伝わってきた。ワタスはすぐに書店で金子光晴の「マレーなんちゃら」という文庫本を手に取って立ち読んでみた。しかしこれが全然分からない。ただ分からないだけならいい、分からなくてもなんかフィーリングが合えば買って背伸びして読んでるようなのが多かったから。しかし金子さんのは分からないばかりか、なにか嫌な感じがした。なんかエラそうというか、向こうから「お前には読まれなくて結構」と拒絶されているような気さえした。それ以降も折々「もうそろそろワタスにも読めるんじゃねえか」と本屋で金子さんを手に取り立ち読んでみたけれど、結局ずっとダメだった。
 ワタスが一番好きな作家の言葉のとおりなら、ワタスは生涯で得るはずの質の高い恋人を二、三人失ったというわけである。そしてペンネームに金子と冠するくらいの筋金入りの金子ファン、カネラーであるところのへ先生などは、金子光晴を読むことで得ることの出来る質の高い二、三人の恋人と出逢えているものと、ひそかに想像してみるのである。