蝶と重機


 未明に目が覚めると雨だった。イスのうえでぼそぼそしていると、日がのぼり空があけていく戸外の気配がする。雨音にまぎれて解体現場の重機の音が響いてくる。空気が乾いている時とはぜんぜん違って、雨ににじんだような音がする。それがいかにも陰鬱で、自分の気分と落差がないぶん気持ちが落ち着くような気がした。解体現場の錆びた鉄筋や、もろもろの残骸、重機なんかが雨に濡れている様を頭に思い浮かべているうち、なんだか見にいきたくなって出かけた。




 傘をさして解体現場で雨の重機を眺める。それから食堂まで出かけた。鶏の揚げたやつを久しぶりに食べた。そこから寂しいところをしばらく散歩するうち、雨があがり日が出てあっという間に道が明るくなった。気温も暖かく感じる。天気予報が当たった。商店で洗剤を買う。小さくて高いのやら大きくて安いのやらいろいろあって迷う。大根氏曰く「それぜんぜん落ちないよ」と云う大きくて一番安い洗剤をカゴにいれた。ふだん必要最低限の食器しか使わないので、食器を洗うのに洗剤をあまり使わないのだけれど、寝る前にフキンを洗剤を溶いた水につけたままにして滅菌するのがブームで、主にそれで洗剤をつかう。滅菌ではないのかも知れないけれど、こうするとフキンが雑巾臭くならず快適である。


 よる。サッカーを観ているとボ先生のラジオが始まったので録音する。お誕生日とのことで、おめでとうございます。初めてボ先生のラジオを聴いたのも数年前の誕生日近くだった気がする。なんとか放送局の公募に数分感のトークを録音して応募したみたいな話をされていたのを覚えている。それから数年後にボ先生にお逢いする機会があり、そのときにハンバーガーをおごってもらったことを昨日のことのように鮮やかに覚えている。その記憶がぜんぜん薄れないので、ワタスはそのことをこのまま死ぬまで覚えていそうな気がする。数百円のハンバーガーをおごったことを一生覚えていられても気持ち悪がられそうな気もするが、初対面の人にモノをおごってもらうというのはとても新鮮で不思議な体験だった。ちょうどその頃も季節は秋だった。よい天気で、広場の遠くの入り口から大柄な人が入ってきてしばらくキョロキョロしつつ、こっちに向かって歩いてくるシーンを何度か頭の中で再生してみた。


 嫌なことの方を向いて考えたり何かを書けば嫌な感じのする言葉や文章になるなあと、当たり前のようなことを寝ながら考えていた。じゃあ、(明確に)好きな人や尊敬する人に向かって書いたり作ったりしたものは、良いのか、どうなのか、と。敬愛する人のことを考えてものを書いたり、作ったりするって何なんだろう。過去にそうやって自分で書いたり作ったりしたものを思い返しても、どうもよく分からない。なんとなく良いような気もするし、ただただなんだか気持ち悪いような気もする。でも、敬愛する「その人」がいなければ、それは生まれなかったんだよなあということだけが、とても不思議な感じがするだけ。
 世の(とくに頼まれもしないのに)作文する人たちというのは、どのくらい読み手のことを考えて書くんだろう。その時に想定する「読み手」とは、その人にとってどのくらい尊敬できる人なんだろう、あるいは、どのくらいどうでもいい人なんだろう。なにかの出来事で世界に自分独りだけになったとしても、それでも書くんだろうか。そのとき、どんなふうに書くんだろうか。