脂の感想文


 某日よる。おんなのひとのラジオ放送に気づく。録音をかけておいて翌朝確認するとまだ放送中でおどろく。おんなのひと一押しの配信者による変な声などが聴けて愉快だった。後で録音部分を聴くと寝息が数時間分収録されていた。これを何かに有効利用できないものか、例えばここの作文集をひらくとBGMとしてこのおんなのひとの寝息がうっすらと再生されるとか、、などと変態らしくいかにも変態みたいなことを考えたけれど、自分勝手すぎるのとセクシーすぎるのでやめた。


 某日ひる。米を研ぐとやはり鍋の表面加工の剥げたところに擦れて米が砕けている気がする。とぎ汁に混じって米の粒子が流れていくように感じた。炊けた米をうつわに盛り、レトルトのハッシュドビーフをかける。表面に旨そうな脂を緻密に踊らせながらハッシュドビーフは米の小山をすべるように流れ包み込んだ。万事準備の整ったうつわを捧げ持つと、これよりこの脂を漲らせたしかるべき容積がワタスの胃袋に収まるのだという手応えがしっかりとある。ワタスの好きなおとこのひとの作文を読みながらそれを食べた。
 そのひとは相変わらずのように、いっぱい本を読むし音楽も聴くし、とても文化的であるのだと今さらのように考えた。ワタスなんてまったく本も読まないし音楽も聴かないし、今ではレトルトのハヤシライスの表面に光る脂がどうのとかいう人だから、ぜんぜん文化的ではない。しかし永年にわたり文化的な人や文化的なような雰囲気だけの人たちに囲まれて過ごして来たので、自分もなにか文化的な人のように錯覚してしまっていて、未だに油断したまま文化的な人みたいな真似事をしてみたり、勘違いしたようなことをすぐに書いてしまう。
 はっきりと自覚しなければいけない。お前はぜんぜん文化的じゃなくて、ハヤシライスの表面の脂にただみとれているだけだ。


 「文化」やら「文化的」とはなんであるかということを考え出すと、結局なんだか分からねえしめんどくせえ!となってなんも書けなくなってしまうので、「『文化』やら『文化的』とはなんであるか」ということはとりあえず横に置いたまま話を続けますが、言葉が流れてゆく例の川のほとりで眺めていると、いっぱい本も読むし音楽も聴くしやっぱ文化的だなあという人やら、さも文化的な人みたいなことを言うけれどなぜか文化的に見えない人やら、「これを買うと文化的ですよ〜」という物売りの思惑にやたら従順な人やら、音楽より身体を動かすのが好きな人に「音楽を買っているような錯覚」を与えるよう巧妙に宣伝広告された音楽の話ばかりする人やら、「なにが文化的だ、クソ喰らえ」みたいな発言のわりに妙に文化的に見えてしまう人の脇をただひたすら「ちんこ!ちんこ!」と連呼しながら通りすぎてゆく人やら、文化的であるかそうでないかという軸に則って見るだけでも、じつにいろんな人がいるんだなあと感じてしまう。肝心の「『文化』やら『文化的』とはなんであるか」ということについてなんの考察もないくせに、なぜかそういうふうに余計なことを感じてしまう。おまえのような奴はただハヤシライスの表面の脂を眺めてりゃいいんだ。


 ぜんぜん文化的でないワタスの生活をどのように記録するべきなのか、もっとそのへんのことに自覚的になって書かなければいけない。


 某日ゆうがた。ヂョ先生のところにいってお話させていただく。なんも考えなしに、ただ見境がつかなくなって突っ込んだので後になって反省する。後で落ち着いて録音をかいつまんで聴いてみると、ワタスの音声が大きくて割れていたり、入力音量の自動調整機能のおかげでワタスの相づちやら笑い声やら鼻音が全部拾われそれがヂョ先生の言葉を全部潰していて非常に聴きづらく、ああ悪いことをした。。とまた嫌気がさす。macスカイプの自動音量調整みたいなクソ機能が解消されているんじゃなかろうかと、二年ぶりくらいに最新版のスカイプを落として入れてみると、また全然意味の分からないインターフェースになっていてげんなりして即放置した。もうなんでもかんでも新ヴァージョンというのが全部改悪にしか思えないというのは、ただたんにワタスが年寄りということなのでしょうね。
 ヂョ先生の「い"ぐぞ!」というおなじみのかけ声について、「この人はなんなのだろう」「どこにいくんだろう」という感想と疑問を先生に届けられたことだけが、ワタスなりの凸の成果だったような気がしている。
 「すべて波である」という量子論の話やら、翌日のクレージートークの「ガードレールを眺めているとすぐ眠くなる」とか「ゴムパッキンも眺めてるとすぐ眠くなる」だとか、ワタスにはそういうの全部が詩みたいに感じられる。そしてとても美しい。そういうふうに感じて聴いているということをどうか分かってほしい。