ギンギラギンにさりげなく清六


 ほとんど斉藤清六の「ギンギラギンにさりげなく」ばかりだった数日。*1
 美とは観者の感覚や意識を拡張しうるものが「美」であるみたいな話を書いた矢先に、おあつらえ向きなのをアレしていただいたなあという印象。思わず耳をそばだててしまうというか、聴けば聴くほど集中力がぐいぐい漲っていくというか、ワタスみたいなもんを引っ張りこんでいくものすごい力を感じた。。もしフルコーラスあるのだとしたら、あのボロボロにもつれたまま倒れ込むようにゴール!という感じで歌われる英歌詞の先の二番はいったいどうなっているのか。ものすごく気になる。あの最後のところの美しさなんて、まさにモノや人が壊れる瞬間に宿る輝きや光というもんじゃなかろうか。。
 ロックの外側にいる自分にとっての「ロック」とは「ずっと外から指をくわえて眺めているもの」というふうに折々書いてきたけれど、そんな自分にもこの清六のロック(敢えてこう呼びたい)の美しさは存分に伝わってきた。これを知らずに「無防美」などという言葉を使ってきた自分が恥ずかしいくらいだ。

 小川さんがラジオで「キャー」とかをかけることについて考えていたんだけど、あれは江戸っ子がソバをツユにほとんどつけないで食べるのと似たようなもんじゃなかろうか。「粋がり」というか。
 それまではずっと、小川さんなりの「照れ隠し」なのかと思っていた。宅録した音源は神経質に作られた電子音響工作風(本人の弁によるとアヴァンポップ)なのに、ライヴだと絶叫でそれらを聴こえなくしてしまうのも、小川さんのシャイさというか、照れ隠しみたいに感じていた(ライヴだとああしないと盛り上がらないというか、何をしてるのかよく分からないということなのかも知れないけれど)。
 小川さんの文章を読んだり、話を聴いていると、とにかくシャイな人という感じがする。かっこつけるのは恥ずかしいと。だけどかっこつけないように、なるべくダサくしたり、どうですかダサいでしょう?と自虐的な笑いにしようとするのも、やはり「かっこつけ」と同じことのようにワタスは思う。それで「キャー」をかけるのも、ソバにツユをつけないのも、おなじ「粋がり」みたいなことなのかなあと、ボサボサした頭のまま考えていた。
 そういえば先日、さる方が「美しさやカッコ良さだけを抽出するDJはもう古い。これからは99%つまらない曲をかけるジャーナリズム型DJの時代。」と呟かれていたけれど、小川さんもそういうお考えなのかしら。でもそこはもっと貪欲でいて欲しいというか、清六のギンギラギンみたいなやつを一発ぶちかまして欲しいと願うのだ。

 あのライヴみたいな絶叫じゃなくて、小川さんにはぜひ清六みたいに唄って欲しいとも思うけれど、あれはまさに天賦の才であるから無理な願いなのだとも思う。正気の人が癲狂のふりをしても本当の癲狂にはかなわない。ではリミックスならどうだろう。清六のギンギラギン自体の魅力が相当にぬきさしならない脱臼具合、あるいは混沌と秩序のせめぎ合いの上になりたつものであるのは重々承知している。その精妙さを損なうことなく、よい方向へリミックスすることが出来ないものだろうか。そこで筋金入りのNDW趣味で培われた小川さんの「こわれた音色」と「脱臼へのこだわり」につい期待してしまうのだ。などとパレシャンブルグみたいなバンドをバックに唄う清六を想像していた。。