「さぶ」と「すさぶ」


 土曜のよふけ。ずっと降っていた雨がやんだ。よく停電する食堂へ大根氏と行った。食べていると3人の酔っぱらいが入ってきて騒いでいる。ひどく泥酔していて、静まりかえった店内にびりびりと大声が響いてやりきれなかった。しきりに「〜じゃけん」と言ってたけれど、広島の人たちなのだろうか。食後に公園で缶コーヒーを飲んだ。広場はそこいらじゅう落ち葉だらけで、まるで雨に爆撃された被災地のような、綺麗なような凄惨なような、カメラを向けた気分が宙吊りにされた。ガスにつつまれた森の奥のほうへ入ってゆくと、濡れた草地が緑色に光っていた。脚に伝わる感触がやわらかく、フカフカしていた。




 おしるこが飲みたかったんだけど、ずっと迷った末、結局インスタントのおしるこを買って飲んだ。ちょうど掌サイズのカップがかわいい大きさなんだけど、100円という値段がかわいくない。おもちゃみたいな餅の入ったおもちゃみたいなおしるこなのに、100円という値段が現実的すぎて気がひけていた。70円くらいならちょうどいい、かわいい値段なのにと思う。場末の百均の一隅であろうがブルースとファンタジーが鋭く対峙するのである。
 小川さんは100円のコンビニおにぎりが申し分ないと言う。自分もそう思う。コンビニおにぎりだろうが、おにぎりはおにぎりで、決しておもちゃっぽいとは思わない。だから100円で申し分ない。本当は汁だけのおしること、別に餅を買って作りたかったんだけど、思いのほか餅が高くてすぐに断念した。たまに実家から届く荷物に頼んでもないのによく餅が入っている。人生で一度も餅を自分で買ったことがなかった。なんだか保存食っぽいし、安いもんだと思って完全になめていた。

 熱湯を入れたカップのおしるこを待つあいだに考えたのは、やんご先生のラジオを聴くとき、必ずアタスの心の中で「やんご先生とアケビが戦っている」ということだった。
 ある作家が東西の名作文学を引き合いに出しこんなことを書いていた。「ロシア文学を代表する傑作であるドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』は神と悪魔の相克を描き、イギリス文学の最高傑作ブロンテ『嵐が丘』は魂と肉体の相克を描いた。そして日本を代表する傑作、漱石の『明暗』は夫と婦、嫁と姑の相克を描いた」と。これにならえば、私にとってのやんご先生の近頃の配信は「やんご先生とアケビの相克」であり「会津秋葉原の(代理)戦争」なのである。そういう心づもりで、古今東西の名作文学と並べるかたちでやんご先生の配信を聴くと、先生のアケビ話もいっそう味わい深いテーマ性を帯びてくると思われた。




 日曜のよふけ。なか卯の和風牛丼250円につられて食う。そのあと暗渠の緑道で缶コーヒー。
 風もない、なんども気配を感じふりむいても誰もいない。目をつむるたび後ろから冷たい腕に抱かれるような夜のベンチだった。しかし帰宅して写真を確認したら柳は揺れてるし、思いくそ適当な嘘つき野郎だった。
 やんご先生の放送を途中から録音したものを聴いたが、また途中で切れていた。二回目より一回目の「グーテンモル"ゲン」の舌のもつれているような感じが気に入ってしまい、そこだけ7回くらいリピートして聴くなど。おそらく途中で切れていた録音にむしゃくしゃしてやったと思われる。一瞬、高田渡の「生活の柄」を口ずさむ感じは、おっさんリスナーへのサーヴィス。いわば「チラわたる」なのだろうか。



 万葉集に「さぶるこ」「さぶる」と出てくる女たちは「佐夫流と言ふは、遊行女婦の字なり」との説明がされ、「遊行」の女たちであることがわかる。
 「さぶ」とは「ある状態が勢いの赴くままに、とどめなくひたむきに進むこと」をいい、(A)「感情が荒れすさんでいく」こと、(B)「静かに奥ゆかしく振舞う」ことの二義が挙げられ、また接尾語化した形が「神さぶ」「男さぶ」などのように名詞の下に付き、「それらしく振る舞う」意となり、それらが形容詞化すると、現代でいうさびしいの意「さびし」「さぶし」となる。
 そして、その派生語として「す」が付けば「すさぶ」になる。「すさぶ」は、「咲きすさぶ」のように動詞の下に付くことが多く「自然の勢いのままにまかせて、とどめようとしてもとまらぬこと」をいい、これが形容詞化すると「すさまじ」となる。
 これらに当てられている漢字は「さぶ」=寂、渋、荒、「さびし」=寂、閑、淋、「すさぶ」=荒、進、遊、「すさまじ」=凄、冷、寒。
 特に「さぶ」と「すさぶ」の同系性が感じられ、その二系統の派生として勢いが朽ちていく方面に向かう「寂」と、勢いが赴くままに進む方面に向かう「凄」がある。これらは「わび」や「さび」という日本文化的な精神要素にも通づる。このなかで「すさぶ」に「遊」の字が当てられているのも注目に価する。「さぶるこ」の名は「さぶ」の(B)「静かに奥ゆかしく振舞う」の意と説明されるが、「すさぶ」=「遊」から考えれば、むしろ(A)「感情が荒れすさんでいく」の方が近いのではないだろうか。*1



 前にもちょっと書いた事だけど、単純におかしいとか面白いとかではなく、おかしいと同時に哀しい/虚しいとか、凄まじいと同時に侘しいとか、現代においては名状し難い感覚をおびた言葉やツイートが気になる。「もののあはれ」やら「あやしうこそものくるほしけれ」みたいな、今となっては(表面的には)整理処分され、失われた感覚。触れてみて思わず面妖な気分をもよおすもの。

 そういう感覚のことを考えていて、ふとファインアート(純粋芸術)の定義する「美」について思い当たった。
 純粋芸術における「美」とは、観者(我々)の「美に対する感覚そのものを拡張するもの」である。諸説あるだろうけれど、アタス的にはこれが一番しっくりくる。もっと砕いて言えば、私たちの「こういうものが美しいんだ」という認識、感覚や気持ち、それ自体をバージョンアップしてくれるようなものが「美しいもの」である。
 (美術の例を挙げれば、近代に印象派が新しい再現描写の方法を模索したり、デュシャンが便器を美術館に置いたり、ウォーホルがキャンベルスープのラベルを描いたり、リキテンスタインが漫画の一コマを一枚のタブローにしてみせたり。それが極端になってシミュレーショニズムみたいなところに行き着いたり。。)
 この、充分に芸術のコンテンポラリーなテーマでもありうる「美的感覚の拡張」という期待と、(「もののあはれ」や「あやしうこそものくるほしけれ」といった)古の言葉が備えていた感覚に憧れたり、追い求めたり、恢復しようとする気分というのは、自分の中で重なる部分が大きいような気がした。


*1:http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/yuu/yuu.htmより抜粋。脱字を修正し(自分に分かりやすいよう勝手に)一部改変しました。