泥と絨毯


 以前「『遊ばせ言葉』に神様が下りる、神が動く」というような文章をどこかで読んだのを思い出し、またふと読みたくなったのだけれど、いくら探せども出てこない。あれこれ調べるうちに時間が経っていた。
 いろいろ見ていて「泥あそび」に関して面白いことを書いてる一節をみつけたので思わず備忘。*1 また泥だ。一時ラジオで「泥水泥水」言ってた第一次泥ブームがあったけど、どうも近頃また泥ブームみたい。泥のことを備忘したとき、やはり頭の片隅にやんご先生のことがあったのだけれど、やんご先生がそれをアレしてくれたのが嬉しかったので、それでまたついつい泥を引きずってしまう。そう言えば以前、未舗装の路地にひかれた絨毯がどうのと書いたけれど、あれも考えてみれば泥がらみなんだよな。。どうも泥に引き寄せられている気がする。
 ともかく、アタスはその時々に心魅かれたモチーフをすぐ好きな人に結びつけて考えてしまう癖があるみたいだ。考えているようで、なんも考えていない。とりあえず同じところに並べてみて、なにか似ていたり、共通点みたいな気配を感じとれると、ただ嬉しいみたい。*2


 よふけ。腹が減ったのでこの前もらった風変わりな桜餅を食うことにした。これがめちゃくちゃ堅くて石鹸みたいな感じ。どうやって食うのか?と尋ねると、焼いて食えという。変わってるなあと思いつつも、焼いてみると桜餅の匂いと言えばそうなんだけど、なんだかもっと強烈な薫りをたてる。それこそ石鹸というか芳香剤というか、ケミカルな感じがする。だいぶやわらかくなったところを箸でつまんで思いきって口に入れて噛みしめると、それがもう本当に石鹸を食ったような味だったので急いで流しに吐き捨てた。ずっと口に石鹸のような味が残り、歯を磨いてもコーヒーを飲んでもとれない。あれはいったいなんだったんだろうな。。
 写真が問題のブツ。





 無言さんがいろいろアレしてくれたのが恐縮というか、恐れ多いつうか、なんだかおっかなくなってきたので、また無言さんのおっかねえところを考えていた。このまえは「無言さんは底が見えないからおっかない」と書いたけど、ちょっと乱暴だったのでもう少し考えた。無言さんは繊細だからおっかない。
 ワタスもわりあい人から繊細とか神経質とか言われるほうではあるんだけども、もっと繊細な人からガサツに思われるのがおっかない。今までワタスが出会ってきた人を思い浮かべてみても、無言さんほど繊細な人がいただろうか?と考えると、すぐには思いつかない。ただ繊細なふりをしている人は掃いて捨てるほどいた。でもその人たちが喋ったり書いたりしたものに触れると、ほとんどがなにかはったりみたいに感じられた。
 細やかで繊細であるということも、例の「世界を10の言葉で捉えるか、100の言葉で捉えるか」みたいな話と一緒だと思う。どれだけ対象に集中し、忍耐強く丁寧に緻密に解釈できるかということじゃないだろうか。
 そういえば、無言さんが「ザル」という言葉を出していたけれど、ザルの目の細かさも一緒だ。たとえばワタスが竹で編んだざっくりした目のザルだとする。そこにカレーを流し込むとする。このカレーがとりあえず世界ね。カレーはざばーっと流れて、ザルにはせいぜいジャガイモやらニンジンくらいしか残らない。カレーという一個の世界からワタスはそれしか受けとることができない。そんで無言さんは合成繊維のなんちゃらファイバーみたいな新素材で出来たザルで、カレーを流すと水分だけ下に流れて、各種具材からルーまで、カレーというひとつの世界のエッセンスを余すところなく漉しとることが出来る。その人の持つ言葉の量や質や精度が、ザルの目の緻密さを作っているんだと思う。
 モニタの解像度に例えてもいい。ワタスが昭和のブラウン管なら、無言さんは最新式のプラズマハイヴィジョンで世界を観ている。やはり言葉の数が画像の肌理の細かさ、走査線の数になる。
 色鉛筆で例えるなら、ワタスは12色入りのクーピーで、頭の中のキャンバスにビリジアン一色で森の緑をざっくり塗りつぶすのに対して、無言さんのは120色くらいの二段式のデラックスな水溶性色鉛筆で、うぐいす色、萌黄色、若草色、松葉色、萌葱色、木賊色、浅葱色だの、ややこしい名前のついた緑色を使い分けて森を描写する感じ。

 前にも書いたとおり、言葉は出力に限らず、入力にも全面的に関わるというのが自分の考えなのだけれど、言葉以外の音楽や視覚芸術で繊細なものを出力(表現)してる人の入力はどうなんだろうな。そういう人たちのザルの目は、言葉じゃなくてなにで出来ているんだろう。。まったく言葉を知らなくても(知らないからこそ)、ものすごいなんかを音楽やら絵で表現する人はなんなんだろうな。天然の触媒というか増幅器というか、それが天才ということなんだろうか。。