みぎわ


 午后おそくから大根氏と出かけた。寒い薄曇り。あっという間に日が落ちて、ますます手に当たる風が寒い。低い方に流れる水のように自堕落にうろつきまわる。なんとなく気になる景色のところで淀んだりぐるぐる廻ったりして、夕暮れの街の外れに沿って流れていった。
 いつもの食堂に入り、またバカみたいに正直に、ワタスという生き物の生態に付き従うように鶏肉の揚げ物を食べた。そして口の中が油っこいので缶コーヒーを飲む。暗くて寒いところに座る場所を見つけ、遠くの街の灯を眺めながら、あれこれとどこにも落ち着かないようなことを話し、冷えた缶コーヒーの残りを飲み終わって立ち上がる。缶コーヒー一本分の協議は、いつも同じところから始まり、同じ地点で終わる。
 本当にこうして文章に書いてみると、やることなすこと、なんにも考えていない。それで実際不自由なくたいへん満足で有り難いことなのだから、バカで満足ということじゃないか。なんですぐに身の程知らずなことを考えようとするのか。

 ワタスのタイムラインに絨毯爆撃のように下ネタが連なることがある。それらをじっと眺めてると、次第に意味が脱落して、まるで波打ちぎわの漂白された記号、汀の貝殻が、観念の浜辺で波に洗われているように見えてくる。無数の下ネタ、駄洒落の残骸が打上げられたメタフィジカルな浜辺。下ネタや駄洒落の残骸は、たまにとてもきれいな形をしているやつがある。それらの残骸は生物が生み出す鉱物、無機物のようで、生体鉱物形成作用という言葉を思い出す。貝殻や骨を「有機物と無機物の間にあるもの」と澁澤某は呼んだが、ワタスには下ネタや駄洒落の残骸もそういうふうに見える時がある。
 言葉はどうやって残骸になるのだろう。どこにも向かわず、誰もその意味を気にせず、それを口にした人にさえ忘れられたとき、言葉は残骸になるのだろうか。ツイッターという場所は、言葉の残骸が不断に生みだされる光景をワタスに見せつける。ワタスがなにか哀しい雰囲気の駄洒落を無心で拾っていたのは、浜辺で気に入った貝殻を拾うような気分だったのかな。



 よふけ。やんご先生の配信を聴く。トラブルでワタワタしながら始まり、そのまま慌てたり喋ったり唄ったり気ままにワタワタされていた。かなり酔っていたみたい。ワタスは「チラスいれな」の件が訊けたので、ホッとして後はピロピロと作業しながら拝聴。とちゅう、とても特徴的な書き込みがあったので掲示板の文章を眺める。この文章は猛烈に見覚えがある。ほぼ同時刻にその方のつぶやきがあったので、やはりあの方が来られていたのだろうか、、などと考えてしまう。
 最後は酔いつぶれて無言になり、ガサガサしたノイズとともに終了。やんご先生の配信は、いつからかアケビの話をよくしたり唄ったりするようになってから、先生の生きざまやブルージーな感じが見えづらくなった気がするから、やはりワタスはアケビが憎たらしいのだけれど、やはり最後は酔いつぶれて寝落ちするあたりはしみじみとしたものがある。アケビごときで先生のこねこねしたあんこのようなぬかるみに映る雲が見えなくなるワタスは、精進が足りないなと感じる。
 昔は酔っぱらうとリスナーに全身で体当たりしてくるような感じがあったけど、いまその体当たりの力の半分はアケビの方に向かっているような感じなのかなあ。