騒音と観察


 作業しつつ、ずっといろんな配信を見聞きしていた。頼まれもしないのになんだか疲れた。目がショボショボする。
 深夜に米を洗う。お釜の表面加工が禿げているところこすれて、米が微妙に砕けているような気がする。念入りに洗ったあと炊く。温めたカレーをかけて食う。食べ終わり、またぐったりしながら、あれこれと見聞きしたことを反芻していた。
 鉄道のそばに住んでいるので騒音がひどい。こういうところにずっと住んでると人の心って荒んだりするものなのかな、などと近頃よく考える。だけど、向かいのなんちゃら施設からは、ずっと子供の笑い声やら歌声が聴こえてくる。こういう場合どうなんだろう。子供の歌はなんとなく心が温まるというか穏やかになるような気もするけれど。まあ、うるさいっちゃーうるさいのだけれど。電車と子供の歌声の狭間で、だらだらとこういうのを書いている。

 以下はいろいろと感想文。日記の流れに沿って並べ替えたり整形するのが面倒なので、書いたまま置いてきます。
 やんご先生の配信の録音は数分で切れていた。Mさんのも他のとかぶったので録音して聴いたら、タイトル募集とか面白そうなことをしていたので、生で聴けたらよかった。
 無言さんのやつはツイッターの方でリプライするなりして伝えたかったことなのだけど、どうやっても140文字に出来なかったので、単純にこちらに書こうと思います。



1
 「変な時刻にみなさんがたまり場にいます。それをすり抜けるかたちで、乾燥いもを食べています。」*1
 この無言さんのつぶやきを眺めて考えていた。「すり抜けるかたち」(身体のフォルム、姿勢、運動の軌跡)という鋭敏でしなやかな感じと、「乾燥いも」という言葉の朴訥とした風合いのコントラスト。動と静の対比のようなものの鮮やかさ。だけども、ふと振り返ってみると、無言さんは腰の具合がよろしくないのを思い出した。これは「動と静の相克、せめぎ合い」といったスリリングなものではないのかもしれない。無言さんの「すり抜けるかたち」は、むしろ「乾燥いも」に寄りそっていくような、穏やかな形なのかもしれない。「芋」と「すりぬけるかたち」、両者の穏やかな関係性を伝える、なにやら優しい言葉のように思えてきた。
 以上のような考えをいつぞやの「綾瀬はるかと富士山」*2のような図説にしてみたかったのだけれど、あいにく左のパソコンじゃぜんぜん出来ねえのだった。。ワタスはかなしい。

 無言さんの言葉を読んでいると、「無言さんの書く言葉は、無言さんの言葉」という感覚がいつもちゃんとあることに気づく。ワタスの言葉は、読み返すとワタスの言葉じゃないような時がある。ひどいと書いてる最中からそういう感覚があるときさえある。なんで「無言さんの書く言葉は、無言さんの言葉」という感じがちゃんとするんだろう?と思うけど、なんでか分からない。
 無言さんは、身体の具合のことや、家のことなど、自身の大変なあれこれをたまに日記で垣間見せることがあるけれど、そういういろいろな背負っているものがあって、真剣に生きているからこそ「無言さんの書く言葉は、無言さんの言葉」となったのだろうか(こういうふうに考えると嫌がられるような気もするのだけど)。その点、ワタスはなにも背負ってない、本当にうすっぺらい人間であるので、自分で書く言葉が自分の言葉じゃない気がするのだろうか。



2
 ツイッターのほうで、フォローしてくれている(おそらく)ねとらじがらみの正体不明の方って、どうやって来られたんだろう? ワタスがねとらじをしていたのは今から二年以上遡るけど、まさかそれを聴いてくれていた方なのだろうか? そうだとしたら、やたら素敵なことだなあと思うけど、それもなんか出来過ぎな気がする。。そのフォロワーさんたちが某タさんもフォローしてるケースが多いので、なんか某タさんがいろいろとアレしてくれたりするのかなあとか思ったりもするんだけれど、どうなんだろうなあ、気になる。
 ワタスがいろいろネットでやり散らかしたトコからツイッターにリンクを貼るようにして、そうして来てくれた人たちの顔ぶれをみたり、その方々の言葉に触れることで、一向に埒の開かない意味の分からない自分自身のことを見直させてもらっている。言葉どおり「鏡」みたいな使い方。そうやって人様の言葉を眺めては、いいなとか、すげえなとか、ひでえなとか、いろんなことを感じるけれど、全部自分がやったことでつながりを持てた人たちの言葉だから、ありがたく読ませてもらっている。綺麗なのも汚いのも清濁全部含めてこの「言葉が飛び交う小さな環境それ自体」が、現在の自分自身という人間を映しているのだという気持ちで受けとめる。



3
(某タさんのラジオを聴いて感じたことの覚え。またいつかちゃんと考える。)
 ブログの文章をまとめることについて話されているのを聴いて、ひょっとして某タさんは「コンサバであるということ」をすごく追求しているのかも知れないと思った。プログレとコンサバどちらが良いとか優れてるとか、もちろんそういうのとは一切関係なく。それから保守性(コンサバティヴ)と通俗性、大衆性(ポップ)のことなど。
 某タさんの文章、ラジオ、写真には、必ずどこかで見聞きしたような、お手本(大袈裟に言えば伝統)に則ったような姿勢を感じる。観者、聴衆が受け入れるさいの抵抗感のようなものを抑え、消費しやすくする、ポップ(通俗的)にするということ。ただし限りなくポップで俗っぽく消費しやすいものを作りたいのかというと微妙で、(芸術)表現かポップかという尺度ではポップよりだけど、人の心に残る手応えのようなもの、あるいていどの消費強度も残したいという、さじ加減も感じるなど。
 しかしあくまでも「こういうのが人の心に残るアレだよね」という紋切型に則っているなら、それはやはりポップなのか。消費強度のような幻影が生まれるだけで、本当の消費強度ではないのか。またコンサバを念頭に置き、配信内の偶発性を排除すれば、偶然の消費強度が生まれる機会も失うのか、云々。



4
 小川さんの配信をやっと生で聴けた。やたら眠そうな小川さんのどうでもよさそうな感じと、容赦なく的確かつ几帳面に突っ込んでいく豆さんの責任感のようなものの対比が際立っていて面白かった。
 書き込みの「小川さんにもっと優しくするべきだった」というのはまったくの本音で、思い返せばいろいろある。小川さんがやっと探して入手した珍しい音源を聴かせてもらった時の自分のそっけない態度とか、ここのことをツイートしてくれた時に反射的に非公開にしてしまったこととか、ちゃんと相手の気持ちになってもっと冷静な判断が出来たのではないか?とあれこれ後悔している。
 それから、配信中に自分がつまらないことをあれこれ書き込んだせいで、やりづらそうだったというのも反省している。いつだか豆さんが「ツイッターのネタ師的な人が云々」という話をされていたと思うけど、アタスはそういう人たちの矜持やら考え、マナーというのが全然分かってないので、そういうワタスみたいな部外者が思ったことをそのまま配信用チャットに書くのはよくないことなのかなあと感じたりした。そもそもあの配信は万人向けというより、小川さんや豆さんのフォロワーさんのためのもので、ある特有のムードを共有、確認し合うためのものなのか等、いろいろと考えさせられた。
 配信の最後、小川さんがすごく眠そうに「板かまぼこさん、ありがとうございましたァ。。」っていうのが無性におもしろかった。



5
 缶コーヒーを飲む人が登場する配信を鑑賞。顔を見るのは何年ぶりだろう。無国籍な感じというか、ものすごくいかがわしい雰囲気がやたらとかっこよかった。かけるレコードとあの風体の一致具合が半端なかった。話の雰囲気も良くて、未だあの缶コーヒーを飲む心情は失われていないような気がしたけれど、アタスの勝手な希望的観測つうもんなのかもしれない。