スーパーアイドル


 朝。民生食堂で牛丼を食っていた。紙ナプキンが切れているところを補充しにきた新人バイトらしき中国人の娘に、となりの席のおっさんがものすごい小声で「謝謝」と呟いていて、やさしいおっさんだなあと感じ入った。すごく小さな声だったので中国娘に聴こえたのかも分からないくらい。中国娘の反応を見ようとすぐに牛丼から顔を上げたが、もう後ろを向いて去っていくところだった。自分は普段からなぜか耳を澄ましているようなところがあって、他人の小声を聴き取るのには自信があるんだけど、あれはものすごい小声の謝謝だった。大声で謝謝だと多分そんなに優しい感じがしないんだけど、小声で娘だけに聴こえるように呟くおっさんが、なんかかっこいいなと思った。

 それから、例によって公園で缶コーヒーを飲んでいると、広場のすみで歌い踊る人がいたので、それを遠巻きにぼんやりと眺めていた。そしてなぜか唐突にスーパーアイドル日野誠のことを思い出した。そして「楽しんごはいっぱいテレビに出てるのに、なぜスーパーアイドル日野誠はほとんど露出がないんだろう」と思った。どうしてスーパーアイドル日野誠の比較対象として咄嗟に楽しんごが出てきたのか自分でも分からなかった。なんとなくオカマっぽいからかな?と思ったが、スーパーアイドル日野誠はオカマっぽいわけではなく、昭和のアイドル風なだけだ。観ていてなんとなく痛々しい感じが共通してるだけ。
 しかしワタスは楽しんごのことはとても嫌いで、「嫌いと言いながらも観てしまう」とかいうのでもなく、もう本当に嫌いだから出てきたらすぐテレビを消す勢いで生理的にダメなんだけど、スーパーアイドル日野誠はぜんぜん嫌な感じはしなくて、スーパーアイドル日野誠をテレビでよく見かけた当時は「スーパーアイドル日野誠は面白いなあ。。」という思いをちゃんと噛みしめながら観ていたのを思い出して、なんでワタスの二人に対する印象は似ているのに、こんなに好き嫌いがはっきり分かれるんだろうと思った。(楽しんごが「痛々しい」というワタスの認識も多分的外れで、世間的にはそうでもないような気配を感じている。例のいくつかのお約束の言動と動作を完了したあとは、わりとそこいら辺の中年男性と変わらない普通のまともなことを話している気もするんだけど、なんせ出てきたらすぐテレビを消してしまうのではっきりしたことは分からない。)

 「スーパーアイドル」という言葉がすごい。
 まず最初にワタスが直感した印象は、言葉を無闇矢鱈と積み上げ意味を脱臼させる『ストロベリーショートケーキセレナーデ現象』の気配である。しかし一旦それは横に置き、もう一度真正面から「スーパーアイドル」ということを考えてみた。和訳すれば「超偶像」である。アイドルの語源となった偶像、そこから偶像崇拝、アミニズムなどと連想を辿るうち、なんとなく「スーパーアイドル」という言葉がワタスの頭の中でにわかに「過激かつ急進的偶像崇拝」といった不穏な色合いを帯びはじめた。
 とるに足らない偶像(物質)に精神性や神性を見いだすのが偶像崇拝なら、崇拝対象の偶像がしょうもなければしょうもないほど、不細工で陳腐であればあるほど、偶像崇拝という行為自体の純度、ならびに崇拝対象となる偶像すなわちアイドルの純度のようなものも増すのではないか?そんな考えにワタスの心は次第にひっぱられた。その点でスーパーアイドル日野誠は、アイドルとしての純度、濃度のようなものを過激かつ急進的に突き詰めた結果なのではなかろうか。そういう文脈において「スーパー」なのではなかろうか。
 また「超偶像」という大風呂敷のあとに続く「日野誠」といういかにも平凡な名前の落差もなにか示唆的に感じられた。べつにアイドルっぽくない名前だとは言わないが、どこか地味というか。全校朝礼の時に必ず貧血でぶっ倒れて保健室に運ばれる隣のクラスの目立たない生徒、そんな感じの凡庸さを「ひのまこと」という響きにワタスは感じる。

 楽しんごと言えば、「あ、あれ『らくしんご』じゃなくて『たのしんご』って読むんですか!」という小川さんのラジオでの一言、そしてそれに対して「『らくしんご』って、落語の楽一門ですか。普段、ラクさん!とか呼ばれてるんですか」みたいな豆なんとかさんの突っ込みを思い出し、咄嗟に気の利いたことを言うもんだなあ、、などと一日遅れでニヤニヤしたりした。

 それから、雲ひとつない秋空のとても高いところを、飛行機がきらきらと光りながら音もなく飛んでいくのを眺めた。数年前、勤め先近くの丸井の屋上から、空にただ静かに浮かぶ飛行船を見えなくなるまで見送った、あの時も同じ、泣きたいような何も感じていないような(自分がそこにいないような。あるいは、飛行船を眺める自分も同時に外から眺めるような)不思議な気分だった。自分も一緒にどこか遠くへ連れて行ってくれ。それは、スーパーアイドル日野誠を考える心境の基調にあるものと変わらないように感じられた。

 帰宅し、作業をしながら、うどんの娘さんのウクレレ練習を聴いていると、沼津のあの曲が流れて盛大にふいた。いったい誰が貼ったんだろう。飴をなめながら童謡のウクレレ演奏を聴いていると保育園にいるみたいな感じだった。うどんの娘さんは声の中に室井滋成分みたいなのが微妙にふくまれていて、そこが素晴らしい。
 よる。サッカーを観ながら、やんごとなきラジオを聴いた。行ったり来たりするボールのゆくえを眼で追いつつ、「高尾山高尾山」言っているのを聴いているうち、いつのまにか寝てしまっていた。目が覚めると試合は終わりラジオも消えていた。ひきつづきボ先生のラジオを聴く。大菩薩峠からぼんやりと眺めた夕日と、そこで聴いた音楽にしみじみしつつ、そうそうこれが普通というか正常だよなあ、と、また「小川さんは夕日を眺めてぼんやりするのか、感傷に浸るのか問題」を思い出してしまった。
 やはり情緒や感傷を寸断しないと耐えられない過去とか、やってられない毎日みたいなとこに話はいくのかなあ。小川さん普段からそういうこと書いてるしなあ。「どうしょうもない歌謡曲の虚無感」みたいな話はよくされてるけど、虚無感というのは一般的には「その先の虚無を想像、連想させる感覚、虚無の気配のようなもの」ということで、決して虚無自体ではないと思っている。「虚無のようなもの」は感じとれても、虚無そのもの(何もないということ)をまともな神経で感じ、受けとめるることは出来ない気がする。しかし小川さんが虚無感という言葉を使う場合、本当に感情が空白というか、本当に感情が何もないという意味で「虚無」と言われているのだろうか。やはり気になるところだ。



 明くる日の夜。サッカーを観ていて大放送に気づかなかった。ぬかった。
 その大放送(10/30)で小川さんが林原めぐみという声優アイドルの楽曲動画をコマ送りしながら、そのイイ顔、表情の躍動感、心意気のようなものについて懇切丁寧に解説されていた。冒頭の「楽しさいっぱいでいきたいと思うんですよね」から小川節全開で「倖田來未もこういう感じにしたらもっとファンが増える」という鋭い提言、最終的に「それも味ですよね」という一言で総括されていた。ワタスには「声優アイドル」というジャンルがどういったものなのか分からないが、スーパーアイドル問題、偶像の純度について、また考えさせられた。

◎ノイズ/アヴァンポップアーティスト小川直人による、林原めぐみ『真夏のバレンタイン』解説
http://www.ustream.tv/recorded/18207334 (62分あたりから)