カレー


 よふけ。
 小川さんのライブの映像を観た。ノイズを鳴らしながら叫び、それを暖かく見守る観衆の眼差し。すると暴れ回る小川さんが、だんだんと巨大な赤ん坊に見えてきて不思議だった。知識や方法を拒み、ただ表現したいという自分の気持ちに純粋になればなろうとするほど、人は生まれたままの無垢な姿に戻ろうとするのかしら。。
 それからまた、小川さんの配信録画を眺める。中学時代、氷室京介の「エンジェル」とオヨネーズが双璧だったというワケの分からない、拳銃の暴発のようなオープニングから笑う。その後もなんだかずっと面白かった気がするんだけど、翌朝もめ事が起きて記憶がふっとんでしまった。昼過ぎ、沈んだ気分を飲込むように、やけくそぎみにレトルトの大盛りのカレーを食べた。気分は変わらず、ただ胸焼けをおこして頻繁に噫が出る。そのつど、噫が腹からカレー風味の悲しい気分を連れかえる。ちょっとずつまた気分が沈む。

 「プリンセスプリンセスのMという曲がずっとクソみたいに嫌いだったけど、ちかごろ聴き方を発見した」という話をされていたのを思い出す。「もうこの冒頭のピアノから、バラードぶちかますよ!って感じで面白いでしょ」と爆笑していて、それがあまりにも楽しそうで、つられてこっちも笑った。音楽を聴いてしみじみすることがないみたいな潔いことも話していた(冗談か本気か分からないけれど)。なにかをぼんやり聴きながら(そういえば、そもそも小川さんはあまりぼんやりしているイメージがないな。。)、不随意に心が動くというようなこともないのかな? 意識的に押し殺しているのか、ただ本当に不感症なのか。
 一年かもう少し前か、小川さんとスカイプで話す機会があった。その時「音数の少ない女性ジャズボーカルアルバムがどうの」みたいな話になり、なぜかアン・バートンの「ブルーバートン」だか、顔どアップのジャケのどちらかのアルバムを一緒に聴いた。なりゆきだったとはいえ、あれは不思議な時間だった。両者ずっと無言だった。あの時、小川さんはなにを感じ、考えていたのだろうか?と、その時も気になったが、今また思い出して、急激に気になった。アーティスト小川直人がこの先ビッグになることがあれば、ワタスはファンに向かって「あのノイズの小川直人とアンバートンを聴いたことがあるぜ」と自慢してやりたい。
 そういえば小川さんの恋の話というのを読んだ経験がない。いや、どこかで初恋の相手の苗字を唐突に書いていた気もするけど、記憶がどうも定かじゃない。恋愛について、小川直人の恋心のようなものについて正面から語っているのを読んだ記憶がない。いつか小川さんが自身の恋心を静かに語りはじめたら、なんかたいへんなものが読めそうな気がした。

 小川さんがらみで、むかし付き合いのあった人のツイッターのアカウントを見かける。相変わらず、飾らずにきれいなことを淡々と透明な調子で綴っていて、くらべて自分の惨たらしさを思い知らされる。
 フォローしてくれた知らない方の絵を眺める。それが、気持ちが丁寧、というか、気持ちがきれいな感じの絵だったので、ワタスみたいなもんが、、と申し訳ない気分になる。「きれいな絵ですね」と一言伝えたいが、ずっと躊躇している。
 大学生くらいの知らない若者がフォローしてくれたりするが、ワタスみたいな中年が泣き言やらどうにもならないことばっかアワアワつぶやいたりして、申し訳ないことだな、、と急に心細くなる。社会的責任を果たしていないので弱音を吐くにも弱気になる。一応ぎりぎり社会的責任を果たしていた頃も弱音ばかり吐いていたけど、もっと堂々と弱音を吐けていた気がする。
 社会的責任を果たしていなくても、明るく豪胆なことを吐き続けられる人は大勢いて、すげえな、強いな、とつくづく思う。ワタスが野生動物だったら眼が開く前に一撃で補食されてるだろうな。。

 アンさんのを貼ろうかと思ったけど、とくに思い入れのある一曲っつう感じのもないし、アンさんのお声もダイクさんのやたらカクカクしたピアノも、どうも今の気分には息苦しかった(気分がはまると、よいのですが。。)ので、ぜんぜん関係ないやつを貼ります。これを聴くとアタスは積極的にぼんやり出来るというか、受け身なぼんやりじゃなくて、なにか能動的にぼんやり出来る感じがします。意思をもって無意思になるとか、意識して無意識になるとか、言葉づらだけだとなんとも微妙な感じなのですが。
 そして小川さんはぼんやりすることがあるのか、アーティスト小川直人がぼんやりとただ壁を見つめるようなことがあるのか。そのぼんやりに音楽が入り込む余地はあるのか、いつかインタヴュー出来たらいいですね。「ぼんやり」の字面がどうにもしゃらくさかったら「呆然」でもいいです。