夜のピント調整


 mさんが触れてくれていた夢の記録の件について。

 夢の記録だけど、全然たいしたことなくて、どちらかというとダメな人のやることのようにワタスは自覚してます。色んなエラい人たちが夢日記を書いてたりするけど、そういう人たちはエラい人たちの中でもなんとなくダメなタイプな気がします。上の下というか。そんで、ワタスはダメな人なので、ダメな人の中でも特にダメなタイプだから、いわば下の下という感じがします。いや、やっぱエラい人たちはエラいので上の上です。
 なんで夢を見つめたり記録しようとするのか自分でもよく分からない。いろいろ現実に耐えられないから幻に逃げようとか、配信とか画像とか音声関連をいじれなくなったから退屈で、また別の余計なことをしてみようとか、そういう感じなんだろうか。

 夢をよく観察しようと頑張るのと、カメラのレンズのピント調整は似ている気がする。
 夢を見ていない昼間の現実の世界でも、そのピントは調整可能で、妖精が、おばけが、UFOが見える!とかいう人とか、道端でぶつぶつ独り言を呟いてる人とか、駅のホームでなんもないところに怒鳴ってる人なんかは、夜の夢をみるためのピント調整のまま、昼間の世界を見ているのかな?とか、思ったりする。
 で、そこで考えが終われば健全な気もするんだけど、今度は、ワタスらの昼間のピント、現実をみるため用のピントというのが、どのくらい絶対的なものなんだろう?というのが気になってくる。べつに初めから絶対な「現実を見るためのピント」があったわけじゃなく、アタスたち人類が文明化、効率化されてきたなかで、いろいろな歴史的な要請をうけて出来てきたピント(そして今後も変化するピント)だと考えるのが、自然な気がするから。
 世界(風景)の中から現実を選び、決定するためのピント。まどろっこしく書いたけど、例えば映画「もののけ姫」のもののけが見えてる世界と、見えなくなった世界の違いとか、あんな感じだろうか。
 まあでも、やっぱり現実がつらいので「現実用のピントを過信したくない。。」という負け犬根性でもあるのだろうけれど。

 人の無意識や深層心理をいろいろチョメチョメする運動が近代にあって(ああいうのは近代化、効率化、物質主義(動)に対する、「反動」みたいな意味合いが強かったんだっけ?忘れた)フロなんとかさんとか、ユンなんとかさんとか、ご高名な学者の方々がいろいろとチョメチョメされていたと思いますが、それは同時代の芸術にも波及して、いわゆる超現実主義(シュールリアリスム)運動がおこった。
 越(スーパー/シュール)現実主義(リアリスム)。そういえば、お笑いとかの「シュール」みたいな要素を、立川談志師匠が永年にわたり意地でも「イリュージョン」と呼ぶのが面白かった。さしている意味合いはほとんど同じだと思うんだけど。。ちかごろ、アタスがやたらと「まぼろし」とか言いたくなるのも、家元が「シュール」を「イリュージョン」と呼びたいのと、ひょっとして似たような気持ちなのかしら?と、ふと振り返って苦々しような気持ちになった。シュールも、イリュージョンも、まぼろしも、どれも「世界を見るピント調整を、無意識に固定したくない」という気持ちが言わせる言葉なのかな?と、ちょっと思った。

 そういえばいつだったか、jkさんの話で出て来た「風景に感じる郷愁」も、ピント調整になにか関係がありそうな気もする。現実を見る昼間のピントと、夜のピントのあいだを揺らいでいるような心理状態が「郷愁」なのかもしれない。




 ピントというのは別に視覚的なことに限らず、人間が対象を知覚するさいの様々なルール全般におよんでいる。記号論(アタスはこの考えが好きなので、なんかいつもこればっかでアレなのですが)みたいな解釈によると、世界を捉えるためには必ず言葉が必要になる。(乱暴に言えば)言葉として存在しない物事を人間は捉えられない。言葉にないもの、言葉にしにくいモヤモヤしたものに関しては、言葉を工夫したり、いろいろ補い合わせて、似たような何かをおおまかに捉えているだけ。10の言葉しか知らない子供にとっての世界は10であって、100の言葉を知っている老人にとっての世界は100。同じ世界を目の前にしても、何かを感じ、意味をくみ取り、解釈出来る幅が違う。よくある子供の眺める世界が豊かだという物言いは、あくまで大人の目線、100の言葉で子供の目線を振り返った場合のことだと思う。

 未分化な大きなボンヤリとした塊としての世界を、人間が自分たちの勝手なルールで解釈する。「友達が/去った/あとの/すこし/暗い/部屋の/テーブルの/上に/ある/リンゴ」と原語化し、文節で区切り、文法化して知覚する。人間の作った勝手なルール。人間の文明化、効率化にともなって、夜の夢や幻は、ないもの(捉えるに価しないもの)のように扱われたので、そのルールは昼間の世界を見るために出来てきた。だから、自分らがそういう昼間用のルールでもって夜の夢を捉え、解釈するのが難しいのは当然なんだろう。

 たとえば、ある世界に「えwふぃおえrgjdjんkfっg」という未知の言葉があるとする。これを人間の言葉で「満開の桜が一斉に散り、まるで花びらが空中に静止し、そこに地面が近づいていっているように感じられた、言葉にならない感覚」とする。これが「言葉をいろいろ補い合わせて、似たような何かをおおまかに捉えている」状態で、なかなかに苦しい。「えwふぃおえrgjdjんkfっg」という言葉があって初めて「えwふぃおえrgjdjんkfっg」という我々には未知の意味を捉え、また共有することが可能となる。
 (たとえに出した「満開の桜が一斉に散り、まるで花びらが空中に静止し〜略」は、ある作家が「幽玄」という日本固有の美の感覚を想起した、ある光景だそうです。「もののあはれ」同様、現在は「趣き深い、名状し難い」などといった意味の説明がされていますが、ぶっちゃけて「今じゃワケが分からない」というだいぶ消極的な解釈な気もします。この言葉に馴染んでいた古来の日本人だけが明確に持ちえた感覚で、今は言葉だけが残骸のように残り、(一般には)内容が失われてしまった言葉なのかも知れません。)

 mさんが「ぼんやりをテキスト化できる」とありがたいことを書いてくれたけれど、夢や幻を、霧のような不安定な状態のまま文章に定着するには、昼間の世界用に作られたルールから逸脱したような、べつの言葉のルールがいるのかも知れない。こういうワタスのぎこちない、ただ言葉を積み重ねるだけの、頭の固い調子の文章じゃダメで、たとえば詩人みたいな人たちのような奔放というか、自由闊達な言葉、ルールをぶっ壊したような言葉なら、不安定なものを不安定なまま捉えられるような気がする。そういう雰囲気の作文やらツイートにあたると、確かになんとなく短い白昼夢が目の前に再現されているような気分になる。



(数日前からだらだらと思ったことなどを書いていたんだけど、全然まとまらない上に長ったらしい、まどろっこしい話になってしまったので、丁寧語やら「〜だと思う」とか「〜な気がする」という語尾を省いてます。妙に断定してるような調子になってますが、あくまでもなんとなく思っていることですので、あしからず。)