缶コーヒー

 (10/9)
 昼に出かける。良い天気で暑くも寒くもない。
 路地に出ると、肥えた女児が自転車に乗る練習をしていた。どこかで見た顔だなあと思ったら、谷底の商店でむかしよく見かけた子供だった。店の中で歌ったり踊ったり大暴れしていたのでよく覚えている。何年か見ない間にすごく大きくなっていた。そういえば谷底の商店がつぶれてから、ずっと見かけなかった。
 それから制服を着た若者の一群が、車いすに乗ってぞろぞろやってきた。介護学校の実習中らしい。その中の一人、まるで中国の工場の廃液のような、目くるめく七色の髪をした若い女の子が、車いすを運転していて、なんだかただごとじゃねえなと眼を奪われる。なんつうか細かい事情は分からないけれども、パンクっぽい趣向のヘアスタイル、ということだろうか。秋の長閑な陽射しがまどろむ路地の景色を、「パンク」と「介護」が車いすの速度で横断し、ゆっくりと角に消えるのを見送った。
 いつもの店でたばこを買う。むかしの投げ込み寺のわきをぬけ、ビルの裏の暗渠化された遊歩道を自転車でだらだらと走っていく。いつもの食堂で食事。中ぐらいの商店街と長い商店街をぬけ、いつものところで100円の缶コーヒーを買い、いつもの要塞のような公園へ。草木の勢いもすっかりおちついて、深緑やくすんだ色をして折り重なり、静かにしている。こうして、冬にむけて少しずつ押し黙っていくのだろうか。

 広場の一隅、大きな木立の下で缶コーヒーを飲み、呆然とする。もう何度繰り返したことだろう。おきまりの食事をし、いつもの商店街をぬけ、コーヒーを買って公園まで。自由気ままにやっているつもりが、すっかりルーチン化してしまった。缶コーヒーのことを考えると、昔に出逢った人々のことが思い出される。

 一人は、缶コーヒーをしょっちゅう飲んでいた学生時代の友人。窓の外の闇の気配、蛍光灯の青ざめた律動、灰皿の吸い殻の山。机に足をかけパイプ椅子の前を浮かし、ゆらゆらとバランスをとりながら「缶コーヒー、うまいよね」と(確かめるように)、いつも言っていた。あれはなんだったのだろう。ただありのまま、他人(私)に向けて言っていたのかな。それとも、自分自身(彼)に言い聞かせるように言っていたのだろうか。果たしてどこに向かう言葉だったのか? 言葉の真意を見つめなおそうと記憶の底を覗き込むも、眼をこらせばこらすほどますます不確かであやふやなまま、彼はパイプ椅子を揺らして笑っている。
 今でもたまに彼の噂を耳にするたび。まだ彼はどこかで缶コーヒーを飲んでいるのかな? 今はどんな気分で飲んでいるのだろうか? それは今の自分には想像もつかない気分なのだろうか、、などと、ふと考えたりする。

 もう一人は、何年か前にネットで知り合った人。実際には二、三度しかお会いしたことはないけれど、数年前の早朝の富士ソバの穏やかな微笑やら、池袋でコ"-ゴ-チンボ-ラ-だか白浜フ"ル-スなどという逸話やら、、とりとめもないかけらが記憶の海の波打ち際をただよっている。
 その当時、彼が書いていた日記にたびたびあらわれた、缶コーヒーを飲むシーンがなぜだか好きだった。帰りの電車賃が怪しくなるまで中古店をうろつき、さまよい求め、(おそらく)寂しげな場末に立ち尽くし、たどりつく一本の缶コーヒー。充実感や期待、反省や後悔や様々な逡巡、そして得体の知れない寂寞とした思いが、その缶コーヒーの味にはとけ込んでいるような気がした。まるで彼は、頭の中を巡るいろいろな思いを一杯の缶コーヒーに溶かして飲み込んでいるように思えた。そしてなんとなく、安っぽい缶コーヒーでなければ諸々の思いがとけ込む余地がないように思えた。
 中古屋めぐりを終えて、喫茶店のソファで飲むコーヒーもいい気分だが、(自分の経験では)なぜだか、それではあまり反省させてくれないような気がした(喫茶店の料金と引き換えに、もう一枚との未知の出逢いを諦めたこと、とはまた別の理由で)。いわんや●ターバックスだなんだともてはやすご陽気な人々には分かるはずもない精妙な機微と思われてならない。

 自分がいつから缶コーヒーをすすんで常習するようになったのか、はっきりと思い出せない。気づいたら墓場やら寂しげな場末で、埃で黒ずんだ手に中古屋の袋をさげ、呆然と飲んでいた気がする。そして熱病のような季節がすぎ、墓場から遠ざかり、埃だらけの手が中古屋の袋を掴まなくなっても、それでもなお自分を缶コーヒーへ向かわせる気分は、むかしと変わっていない気がする。
 飲み口の先の小さな暗闇に、不安や後悔や迷い、やり場のない思いを投げ込む。そして呆然と、缶コーヒーの虚ろな味といっしょに飲み込み、なかったことにしようとしている。

 などとだらだら書いてみたらなんだか缶コーヒー礼賛というか、遠回しな批判というか、なんつうか宣伝文句みたいな日記になったので、メーカーさん缶コーヒー一年分くらい下さい。