幻の公園


 あさ。飯を食べに出かけると寒い雨だった。めっきり秋らしい。
 道すがら、なんだか金木犀の匂いがすごい。そして自動的に便所の芳香剤のことを思う。幼少の頃、アタスは「金木犀」という名前を知るより先に「便所の芳香剤みたいなにおいの花」というふうに覚えてしまったので、未だにそういう感じ。こうしてあらためて文字に書いて見返すと、やはりだいぶ可哀想な人という風情がただよう。「金木犀の人」と「便所の芳香剤の人」。かように日本人を二種類に分けるならば、やはりアタスみたいなもんは「便所の芳香剤の人」ということになる。なんで二種類に分けるのか?と聞かれれば特に理由はないんだけど、試しにそういうふうに考えてみると、やはり自分のことをなんとなく納得出来る気がするのだ。

 夏の暑いあいだ、ずっとダラダラとしていた。
 伊豆の方に家族旅行に行った。そのことを某所で呟いてみたら、「ひとり旅、いいですね」などとお声をかけていただいた。なんとなく、そういう孤独な人みたいな印象なのだろうか、いい歳でもあることだし。でも一人旅なんて随分かっこいい感じなので、申し訳なく思った。「実家の家族旅行についていっただけです」と訂正しようかとも思ったけど、「ああなんか微妙なことに触れてしまったかな?」などと相手にへんな気を使わせるんじゃなかろうか?などと思ったり、その後のやりとりのことなど勝手に想像してみるにつけ、結局そのままにしてしまった。暑くて急激に色々なことがめんどくさくなってしまい、ここの作文ばかりか、某所を見るのもやめてしまった。

 旅行での写真について触れていただいたりして、有り難いというか、なんだか気を使わせてしまっているようで、申し訳なく思った。
 旅先で写真を撮ったりもしたのだけれど、なんだかよく分からないような気分でずっと撮っていた。見知らぬ田舎の路地裏に迷い込んでシャッターを押してみたりするも、なんだか代りばえしないというか、なんだか本当に撮りたいんだか撮りたくないんだか分からないような、ずっとぼんやりした気分だった。自分が撮ろうとしてるんだか、撮らされているんだか、分からないような、ずっと消極的な感じだった。
 夕げの時間が迫るのを気にしつつ、旅館に向かう夕暮れの海岸を歩いていた。海がきれいだなと思う。ポケットからカメラを出す、撮ってみる。撮った画像を見てみると、それがもう本当にどこにでもあるような月並みな「赤く染まる空と雲の、なんとなくきれいなような写真」という感じで、、なんだかげんなりしてしまう、、、そんな感じだった。。
 そこに反省やら精査する気持ちの余裕こそ充分にないものの、自分の「海がきれいだなあ」と思う気持ちに多分ウソはないと思うし、撮れた写真が自分が感じ入った現実と全然違うというわけでもないのだけれど、なんなのだろうか、この「撮らされている感」は。その「撮らされている感」みたいなのが強くて、今度は「海がきれいだな」というそもそもの自分の気持ちさえ、本当なのかあやしくなってくる。
 「美しい」という言葉や概念にどのくらいの歴史があるのか知らないけれど、夕暮れの海という景色は人類が生まれるはるか大昔からそこにある。夕暮れの海やらなんやら、そういった景色が最初にあって、それに沿ってワタスたちの「美しい」という言葉やら概念、「美しい」と思う気持ち(あるいは、ヒトがヒトになる以前からのDNAレベルの記憶)が生じたと、自然に考えれば、自分みたいなもんが夕暮れの海を観て、気持ちが動いて、おもちゃのようなカメラを取り出し、写真のようなものを撮ったって別におかしくはないというか、間違ってはいないように思う。それでもワタスが撮った夕暮れの海の写真のようなものは、自分が美しいと思い、はっきりした意思を思って撮影したようには、なぜか思えなかった。



 9月の連休にも用事があり、実家に帰省していた。
 かなり陽射しがつよく、いかにもな残暑の日。なんとなく気持ちのむくままに田舎町をそぞろ歩いた。小学校、公園の長い坂を下り、森、お寺の前をぬけて隣町までぶらぶら歩いていくと、ワタスの初恋の人の家が唐突にあらわれた。なぜ「唐突」なのかというと、ワタスの初恋の人は、ワタスが中学に上がる頃に引っ越してしまったと勝手に思っていたからなんだけど、どうもそれは勘違いで、ワタスは住所を間違って覚えていたらしい。すこし珍しい名字なので、おそらくワタスの初恋の人は引っ越しなどすることなく、ずっと隣町に住んでいたらしい。唐突にあらわれた表札の文字に、ワタスはしばらく釘付けられてしまった。
 いまだ夏めいた陽射しに照りつけられた住宅街は静まりかえり、まったくひと気がない。路地の先のほうには陽炎が揺れている。路地の照り返し、ただとりとめなく風がふいて、路地の木立だけがざわざわと揺れていた。風のなかに、ごく僅かに秋のはじめのような匂い、乾いた感触を鼻先に感じる。見上げると、じっと動かない青い空を背景に、ベランダの洗濯物が切り絵のように不自然に浮かび上がっていて、(今はもういい歳だろうから、とっくにどこかに嫁いでると思いつつも)子供服でもかかっていないかしら?と探してしまった。普段は不躾かつ無頓着なワタスだけれど、結局その家にカメラを向けることは出来なかった。。幻を写真に定着してしまうような、なんだか、おっかない気がした。。

 ワタスはそのまま、近くの公園で缶コーヒーを飲みながら呆然としていた。公園にも子供はおろか人っ子一人おらず、大きな木立が葉を揺する音だけがしていた。いったいこの街はどうしたのだろう。
 隅に腰掛け、誰もいない公園を見渡しながら、ワタスはあてどもなく考えた。初恋と(その後の)普通の恋は、何が違うんだろう、そしてどちらがより純粋というか、「恋らしい恋」なのだろうか?ということだった。
 映画やらドラマやら小説、視覚芸術やら音楽、インターネットやらテレビ、各種メディアが発信する恋の在りよう。芸術のようなものの普遍のモチーフとしての恋。それから宣伝広告やら商業活動が打ち出す「恋の在り方」のようなモノ(消費意欲を促し、さもこれがあなた方の人生の目標ですよとばかりにロクでもないモノを買わせるための、紋切型の「恋」)。。ワタス自身の「素直な恋心」と思っていたものは(残念というか、当たり前のように仕方なく)それらの影響下にあるのは否めない。世の中に充満する恋の紋切型を抜きに、どうやって恋をして、いかなる手段で恋を遂行するかなどと、どうやって自分が知れただろう。恋を重ねれば重ねるほど、恋は紋切型に近づいてゆくのだろうか?
 それでは「恋がどんなものか分からないまま始まるのが初恋」だとしたら、初恋は紋切型から自由なのかと考えると、それもどうもあやふやな気がする。自分は本当に素直に、なにからも自由な気持ちで初恋をしていたかとふり返ると、ただ無自覚なだけで自由でも新鮮でもなく、ただ無意識にいろんなものに操られるままだった気もする。。
 恋をして、それを成就させ、社会的契約のような段階を踏んでみてもなお、ふとふりかえればワタスの恋がほんとうにワタスのものなのか皆目分からないし、それについてなんの自信も持てないことを強烈に思い知らされる。ワタスがワタスの恋だと思っていた物は、本当にワタスの恋なのか? 誰かの考えた、誰かに都合のいい、誰かの恋なんじゃないのか?と。

 そこで先の旅行の「夕暮れの海の写真」のことを思い出し、(なんの根拠も考えもないけれど)なんだか恋と似ているように思った。ワタスの撮った夕暮れの海も、ワタスがワタスの恋だと思っていたものも、どこか似ている。はっきりと自分のものと感じられない。これはワタスのものなのだろうか、知らない誰かの写真や恋のような気がするのだ。漠然と。
 どのくらい時間がすぎただろう。陽射しは衰えることなく、ずっとひと気のない公園は時間がとまったままのように感じられた。初恋に関する考えは同じところで堂々巡りをくり返す。。やっとこさ腰をあげ、空き缶をゴミ箱に投げ入れた音も空蝉のように現実感がないまま、ワタスは幻のような公園をあとにした。