知らない、ということを記録する


 食事のあと、午后遅い要塞のような公園をうろつきまわる。木々や茂みから染みこんでくる群青色をした夕暮れ、傾いた陽射しの鋭角なオレンジ色、反対側の際立つ黒い陰、めくるめくモザイクのように整列と爆発をくり返し自転車の後ろへ後ろへと飛んでいった。木立が黒く縁取る向こう側でサラリーマンがベンチで煙草をすい、劇団員が稽古をし、浮浪者がヒモに洗濯物を干し、雀や鳩がパン屑に群がる横で猫が眠った。

 イヤダさんの「前田敦子という人は顔のパーツが中央に寄っていて立ち位置もセンター」という文章を読んで、なるほどそれは覚えやすい!と実に納得した。大人数の真ん中に立って、顔のパーツも真ん中に集中するというのは、観ているこちら側としても、なにか目のやり場に困らないというか、安定した視点移動、視覚効率性においても、理にかなっているように思える。
 大袈裟でなく、ワタスはアケビのことを全然知らないので、よい機会だから今のうちにワタスの知らなさ具合を記録しておこうと思いたった。ググるだのウィキるだの、なんでもかんでもすぐに情報のようなものを閲覧でき、付け焼き刃の知識で評論家づら出来てしまうこのご時世である。ネットでの見聞と、実際の生の見聞を分つものはどんどん希薄になり、両者を頭の中で明確に分つのはますます困難になりつつある。むしろ区別して考えようなどと言う方がナンセンス扱いだ。
 調べもので検索し辿りついた先の作文を読んでも、なんちゃらーのTLを眺めても知ったかぶりの大繁盛。そしてそれを眺めてうんざりするこのワタスもこと知ったかぶりについては人後に落ちない堂々たる知ったかぶり野郎で、こうなるともう民衆の、民衆による、民衆のための知ったかぶり大行進、てんやわんやの大騒ぎで地獄へ向かって一目散なのである。
 「知らない」ということ(言えること)は貴重であり、「ググれカス」などという無粋きわまりないネット社会の趨勢に断固対抗するべく、ワタスは「ググらないカス」という人の在り方を標榜し、「ググるカス」が当たり前のこんな世の中でワタスがワタスであるためのポイズンを貫く所存なのである。


 アケビのことを全く知らないワタスも、なぜだか前田敦子という人は知っていた。アケビなんていう名前さえ知らない頃から、チェコロシツキーというサッカー選手に似ている人として、頻繁に名前や画像を観ていたからだ。また、前田敦子という人に似ているとの指摘以降、逆にワタスはロシツキーの顔もまじまじと眺めるようになった。かようにしてワタスの中で前田敦子ロシツキーはギヴ&テイクな可逆的関係が成立したのである。調子に乗ってギヴ&テイクだの可逆的だのという言葉を使ってはみたけど、こういう使い方で合ってるか知らねえので、気になる方は各自でググったりウィキったりして欲しいと思う。
 それから、板野某という人。この人のアヒル口については、わざとらしいとナ先生が貶し、一方のボ先生がかわいいと言っていた。この見解の真っ向からの齟齬こそ、ワタスが板野某に興味を持ったきっかけであり、果ては画像検索させるに至らしめた。おかげで顔を覚える事は出来たが、下の名前は相変わらず覚えられない。一般にアヒル口というのはワタスもかわいいと思うんだけど、この板野ヨーカドーという人のはわざとらしいなとは思う。アヒル口なのか、もっとトータルな表情作りや立ち居振る舞いなのか、確かに観ていて苛つく何かは感じる。なので観かけるたび、相変わらず苛つくか、なにがそんなにも苛つかせるのか、いってみヨーカドーなのか、その辺を確認するようについ眺めてしまう。これでは板野某の思うつぼである。
 それから、やんご先生が心酔し、たびたび言及されているので、ワタスも画像検索して一緒に記念撮影した、まゆゆという人。まゆゆという人は、やんご先生がご自身のお御足と一緒に写真におさめた写真集の顔しかずっと知らなくて、裸で体育座りの人というか、なんつうか素朴な感じの人だなあと思っていたけど、画像検索して出てきた顔はぜんぜん雰囲気が違うというか、「やんご先生の足と一緒に映っていた顔」に比べて、もっと蠱惑的というか肉感的な感触を備えていたので、一体どういう人なのかと、だいぶ混乱した。それにしても、なんでこの人だけ「まゆゆ」呼ばわりされて特別扱いなのか不明なので、未だに本当にアケビの構成員なのか自信がない。
 それからボ先生が何度も「嫌いだ」と言っていた人が気になっているんだが、何度聞いても名前を忘れてしまう。「元気な感じでどうのこうの」と言ってた人。今度、名前を覚えてチェックしてみたいと思う。