外から眺めるロックンロール


 学者のような、職人のようなオバサンが出てきて変な定規を見せる。この定規を使うとブラウン管のような辺の中程が均一に膨張したような四角形が描けるのだという。それが自分の仕事だと誇らしげに言う。また別の機器を見せ、これを使うと絵画の中の水平垂直が正しいか計ることができると言う。
 そんな夢をみた。

 心配事が出来たり去ったり。雨の朝。しゃがんでなんかを撮ったりしていると、後ろを子供がぞろぞろ歩いていく。今日は涼しくていい。その後入ったコンビニで、煙草一箱につき缶コーヒー一本付きというのにつられ、買い込む。荷物になるから、と迷ったんだけど結局買う。それで一回家に戻るなど。午后遅く。朝鮮人街の民生食堂でものを食っていると、今が一年前だか二年前だか分からなくなる。誰かがなんか喋っているんだけど、ぜんぜん意味が分からないというのは、やはり妙に落ち着く。
 前回はいつもと違う感じのことをしてしまったが、今回からまた不景気な通常運転で。というか、前回も不景気であることには変わりないのだけれど。不景気が変な事したり通常運転するだけの日記なのだけれども。

 ハ先生の日記を読んでいて「ダメだ、こりゃあ」という終わり方で、「ああ、これはハ先生の作文なのだ」ということを妙に力強く実感するなど。アタスの記憶の中のハ先生のラジオの声で「ダメだ、こりゃあ」が再生される。ハ先生のラジオを聴いていた頃も「ダメだ、こりゃあ」は、なんだかとても印象的だった。あれはなんだろう。ドリフとかだろうか。とかなんとか書いていると、またハ先生のラジオが聴きたくなってきてしまうのだけれども。
 夕暮れの路地にただよう味噌汁の匂いというか、いまさらながら、ハ先生のラジオが発散していた強烈な郷愁のようなものについて考えさせられる。

 良し悪しの話ではなく、ラジオでの話し方と、作文の書き方が、似ている人と似ていない人、いろいろあるなあと思う。口語で書くからラジオの話し方に似るかというと、必ずしもそうではないのが、また面白いなと思う。
 扱う内容、口癖以外に、話と文章が似る要素ってなんなんだろう。。なにかの雰囲気や気配のようなもの、ものの考え方や、考えるペース(話と文章に流れてる、時間みたいなもの?)、書いてる(喋ってる)時の集中力の具合、そもそもの性格とか人間性みたいなもの?
 印象というか感想だけ記しておくと、ボ先生のは一見似てないようだけど、よく見ると整理のされ方というか、読み手聴き手への配慮のされ方みたいなものに、共通性を感じる。
 ナ先生や身投げやさんのは、言われないとそれぞれの作文とは気づかないかもしれない。それだけラジオで発揮される個性が強烈というか、その人らしさというのを話術に感じているということなのかしら。。やんごとなき方もそういう感じだけど、膨大な写真に投影されている、そのつどの心象みたいなもの?と、あの声と話し方をアタスが勝手に結びつけてしまっているところがあるので、なかなか冷静に判断できない。
 jkさんのは、内容もそうだけど、こうと決めたら脇目もふらずに一心不乱に突っ込んいく集中力みたいなものが強烈に似通っているなと思う。。







 なぜだかイヤダさんを思い出す曲。それから、ロックンロール、みたいなことを数日考えていたんだけど、そんな折、イヤダさんの作文にロックンロールのことがまた出てきて、奇遇に感じた。モットザフープルって名前はよく聞くけど、聴いた記憶がない。どこかで耳にしているのだろうか。。その曲を検索して出てきた動画を再生したら、だいぶおじいちゃんになってからのモットザフープルらしかった。これがイヤダさんの書いていたモットザフープルなのか、違うのか、なにか本質的には変わりないものなのか、考え出したらあれこれワケが分からなくなってきたところで、静かに閉じた。

 なんとなく世の中の人は、ロックンロールな人と、ロックンロールじゃない人というのに、大雑把に分けられる気がする。そしてアタスは、ロックンロールじゃない人という自覚が昔からある。なぜだか分からないけれど強くある。ロックンロールは常に自分の外側にあって、指をくわえて眺めているもの、という思いがずっとあるからだ。
 ロックンロールのようなものに憧れたり、すべて投げ出して捧げたいと一度でも思ったり、ロックンロールのようなものを誰かと一緒に聴いて無償の歓びのようなものを分かち合ったことがある人が、ロックンロールな人なのかな、と思う。ヘ先生、ナ先生、浜田さん、jkさんとかは、なんとなくロックンロールな匂いがする。オガーさんはロックンロールじゃない人で、やはり外からロックンロールを眺めてる人、という印象を持っている。
 ツイッターのTLに、(主語なしで)やたらと悪態をついたり、しきりに何かに噛み付いたりする人がいて、いちいち、ロックだなあ。。と感じる。ある時、その人が攻撃していたと思しき相手に話かけて、向こうも向こうで当たり前のように黙殺したりしているのを見かけ、ぉぉ、やっぱロックだなあ。。と思う。。

 ロックンロールって意味がわからない。むしろ意味が分からないから、ロックンロールなのか。ロックンロールに感じる意味の分からない感じと、イヤダさんの作文を読んで感じる意味の分からなさが、なんとなく似ている気がする。意味が分からないんだけど、なんとなく魅かれて、聴いたり読んでしまったりするところが似ている。

 そういえば、イヤダさんの女装のことを考えているときに、ヘ先生がかつてオカマバーだかゲイバーに勤めて云々と書いてたようなことを思い出した。「昆明19なんちゃら」とか、そういう日記だっけかなあと、、探しにいってみたけど、見つからない。「平民金子 オカマバー」で検索したら出てきた。「誰に言葉を」という文章だった。(また、2008年4月23日の日記で当時のヘ先生の写真も見れますので、興味のある方はどうぞ)

 なぜだか分からないけれど、ロックンロール、女装やオカマバーということが、ここ数日、頭のなかでぐるぐるした。女装やらオカマバーなどというものに縁なく暮らしてきたけれど、ずっと生きて行くと、そういうこともあるものなのだろうか。ないものなのだろうか。
 イヤダさんとヘ先生という人のことを、もう何年も前から並べて考えてみようとしてきたけど、うまくいかない。




 話がだいぶおかしな感じになってしまったので戻すと、哲夫さんのこれを聴くとイヤダさんのことを思い出す。決して「イヤダさんぽい曲」などとは思わないんだけど、なぜだかイヤダさんを思い出す曲。
 全然ロックではない、フォークロックつうか、ポップスみたいな曲なんだけど、、「僕は夜ごとのロックンローラーに早変わりで♪」と唄われると「ああイヤダさんのことだね」などと、つい条件反射でアタスみたいな浅はか者は思ってしまうのだ。思えば、これもなんだか「ロックンロールを外から眺めている曲」という感じもする。そこに、アタスの「ロックンロールを外から眺める気分」が、たまたま重なったというだけなのかな。
 それから、むかし山下久美子さんがこれと似た雰囲気の唄を歌っていた気がするんだけど、なんていう曲だっけな。思い出せない。気のせいかな。。

 追伸。まったくの偶然から、イヤダさんが昔のツイッターのアカウントでヘ先生と絡んでいるのを発見した。当時、いったいどんな感じだったのか気になるが、今となっては知る由もない。。つうか、イヤダさんもヘ先生の作文を読んでいたというのを初めて知った。もう何年も前から二人を並べて考えてきたというのに、実際に絡んでる現場を見れなくて残念というか、迂闊だったなあ。。