亡霊とおっさんと赤ん坊

 アンテナを眺めていて、平民新聞と仙人新聞がたまに並ぶと、なんだかおかしいなと思う。ヘ先生とjk氏という人を並べて考えてみようとするけど、なかなか(あるいは、当然なのか)うまくいかない。
 ヘ先生の日記を眺めていて、ふと気が向いて昔の記事を遡ってみた。自分がいつヘ先生の日記に出逢ったのか、忘れてしまったから。イヤダさんの作文に出逢う前か後か、というのが気になったんだけど、どうもはっきりと分からなかった。とりあえず、印象的だった「カレーの一生」の日付をみると2008年、思ったより新しいから違う。「部屋に来た虫アーカイヴ」が2006年。なんとなくこれを見てヘ先生の日記に興味を持った気がするんだけど、リアルタイムで読んでいたのか、どうも覚束ない。しかし「カレーの一生」も「大根ストリートビュー」も、ネーミングが最高だなと思う。
 自分の過去の節目節目の時期に、ヘ先生はどんな感じだったんだっけと、拾い読みしてみる。
 「人は観るものしか見えないし、観えるのはすでに心の中にあるものばかりである。(トマス・ハリス「レッド・ドラゴン」の冒頭より)」。なるほどなあ。。いちいち面白かったり、為になるようなことが書いてあって、無駄なことが一切書いてないので、すっかりイヤになってしまう。やはり自分の日頃の作文は、ただストレス解消で書いてるんだと痛感させられる。

 たまに、ヘ先生に関するブログ評みたいなのに当たると、だいたい「異能の写真家」みたいなことが書いてある気がする。もともと自分は、ヘ先生の文章が好きで、写真のことはぜんぜん分からなかった。それは私が素人で、写真の善し悪しの判断に自信がないから。専門家やプロが褒めているんだから、見る人が見れば、それはすごい写真なんだろうなと思う。
 (多分、先に文章を読んでるからか)もろもろの心構え、覚悟がすごい、とか、どう交渉して正面から人を撮らしてもらうんだろう、とか、こういう絶好のシャッターチャンスが来るまで、そこでどのくらい粘ったんだろうとか、水栽培の大根を持ってどうやって電車に乗るんだろうとか、僕にはそのくらいのことしか分からない。専門家は、もっと高度で細かい技術や発想を褒めているのだろうなと、想像するしか出来ない。
 ああでも、あのメシを外に持っていって撮るシリーズは、急に自分もやりたくなって真似してみたなあ。あの衝動は、本当になんだったのか未だに分からない。ああいうのもヘ先生の写真のすごさなのかな。専門家が褒めてる部分に含まれるものなのだろうか。とにかく、何から何までぜんぜん僕には分からない。

 そんなことを考えつつ、ヘ先生の「私景」のように、自分の姿を撮ってみた。本当に亡霊のような、亡者のような気色をしていて、思わずぞっとする。ヘ先生の私景を眺めていると、どう見ても一人のおっさんなのだが、まるで生まれたての赤ん坊みたいにも見えて、とても不思議だ。それから、ヘ先生の日記を眺めている自分を撮ってみた。ただ、自分には顔を出すような覚悟は全くないので、眺めている雰囲気だけなのだけれど。雰囲気だけじゃ全く意味がないようにも思うので、たぶん意味はないのだと思う。やってみただけ。
 それから、イヤダさんが女装していた写真をふと思い出し、また見にいく。なんとなく、もう見れないんじゃないかと思ったが、また再会できた。(イヤダさんによると)イヤダさん自身が映った写真にイヤダさんがどんな作文を添えているのか、ということを意識して、気持ちを落ち着けて改めて読み返す。
 「『おれの時代感』とゆう名の、いわば錯覚なのだが味わえた。」という一節が、なんだか心に残った。