マグソパン


 昨日、なんだか思い切ったことやら、どこそこから人が来たとか、後悔するようなことを書いたので消そうかとも思ったけど、書いた直後に後悔するような日記の方が、ずっと後々読み返して、へえ(こんなこと書いたっけ)、となることが多いので、まあいいかとそのままにする。なにかに気を使って消そうだなんて、そんな大それたもんじゃないのだ、こんな作文。どこかの誰かが通りかかって、暗い写真だなとか、字ぃ小っさ、とか思ってただ通りすぎていくだけだ。そんな大層なもんじゃないのだ。自分がどうでもいいと思ってる何倍もどうでもいい、行く宛のないただ不景気な文字列だ。
 だから誰も彼も、それぞれあることないことどんどん書けばいいと思う。

 夜。懐かしい方が放送していた。気づくのが遅く、最後の十数分だけ聴けた。前に好きで聴いていた放送。一度だけ凸らせていただいたこともあって、特別な思いがある。一年半ぶりくらいだろうか。接続すると、記憶の中の声や話し方と同じ、あの頃と変わらない音が聴こえてきて、思わず感慨に耽ってしまった。掲示板を見ると、自分がむかし贈った画像が、まだ律儀に掲示板に並んでいて、なんだか泣きそうになった。
 その懐かしい方が、自分という人間のことを覚えているかいないかは分からない。どちらでもいい。でも、自分のかつての行為を何かの理由で認めてくれていること、変わらずに同じ場所に留めておいてくれることは、ものすごくうれしい。それだけで充分。むしろ、かつての行為を気に入って同じ場所に留めておいてくれるなら、アタスのことなど10人(回)分忘れられようが、100人分忘れられようが構わないし、死んだと思われていてもぜんぜん満足だ。



 イヤダさんが「甘食」のことを書いていた。
 そうだ、あの食べ物は「甘食」って名前だったんだ、と思い出し、懐かしい感じがした。僕も子供の頃に食べた記憶がある。子供心に、なんだか不思議な食べ物だなと思ってた気がする。口の中の水分が一瞬で持っていかれるあの感じばかりが思い出される。「口の中の水分を持っていかれる食べ物」と聞くと、オガーさんの知り合いの、はじめちゃんさんという方のことを思い出す。むかし東京ラジオという放送で「口の中の水分を持っていく食べ物」全般をいつも激しく非難していた。どうしているかな、はじめちゃんさん。やはり今でも「口の中の水分を一瞬で持っていく食べ物」全般に対する憎しみの炎は燃えているのだろうか。

 つれづれと思いめぐらしていると、そういえば僕の父は甘食のことを「馬糞パン」と呼んでいたことを思い出した。「バフンパン」ではない、「マグソパン」である。父が「マグソパン」と言うたび、そのつど、なんだか男らしさのようなものを感じた。父が「マグソパン」と言うたび、母が(教育的配慮から)「やめなさい」と言っていたのも思い出す。
 父の「マグソパン」と母の「やめなさい」は、必ず阿吽のセットだった。そういうやり取りを耳にしながら、甘食が口の中の水分をみるみる吸収していく感覚を確かめるように、ゆっくりと食べていたあの頃を思い出す。教育ってなんだろうな。「マグソパン」と「やめなさい」の狭間で育った僕は、気づけばこんな人間になってしまった。
 そして、本当にマグソパンという呼び方が一般的なものだったのか、僕の心の陰が生んだ幻ではなかろうか、などと、気になって検索してみたりするうち、いつもどおり、窓辺に漂う白くうすぼけた朝の光が、心の虚しさ、やるせなさの輪郭を静かになぞり、浮かび上がらせるのだった。






 この前のタモリ倶楽部で、一曲だけ素で良いと思ってしまい気になってた曲。それがyoutube投稿されてるのをツイッター経由で知った。また聴けてとても嬉しい。放送中の数秒の感触で得たものが本当だったのか、くり返し再生してみるが、やはり素晴らしいなと思った。
 自分の場合、音痴なやつは、ただの物好き根性とか面白がりですぐに反応してしまうから、なんか油断ならないのだけど(シャグスもイエスタディ〜のカバー以外は聴けないと思うことにしている)、これはなんだか素の感覚で、良いと思ってしまったなあ。ものすごくチャーミング。頭がおかしくなって来てるんだろうか。それもましてやインストとは。
 一言で言うとイノセントということなのだろうか。。なんでよいのか分からない。聴いているつかの間、演奏している人、レコードにした人、自分の耳が音楽のようなものを聴けること、ぜんぶに対して無闇やたらと感謝したい気持ちで心が満たされる。書いてみると気持ち悪いけれど、そんな感じ。
 今でも、もし自分がねとらじ出来るなら、絶対これをかけたいな。というか、番組のテーマにしたいな。。こういうのをかけながら、マグソパンの話をずっとしていたいな。。