2ちゃんねると、もののあはれ




 ふだん見慣れないとことか、どこかのツイッターからのアクセスがあったりして、正直誰に読まれてるのか分からないのでおっかないなあと思う。一応、注意して書いているので誤解はされていないとは思うけど、念のためもう一度書くと、他人が好きなこととか、楽しんでやっていることを無闇に批判するのはクソ馬鹿のナンセンス野郎だと思うので、そういうつもりは全くないです。これはあくまでも、自分が自分のために書いてる備忘録/感想文です。誰かが多部をクソみたいに批判していても、別にアタスはどうだっていいように、ここを読まれている方が大好きなものをたまたまアタスが批判的に書いていても、どうか薄ら笑いでスルーしていただきたく思います。

 昨日書き忘れたけど、やんごとなき方の件についての身投げ屋さんの反応だけど、すごい普通だった。まあ、そうだよなあ、という。(普通と言えば「質問に対して、すごい普通なことを言う」っていう放送企画はすごいなと思った。別にふ○らじ云々を抜きにしても、普通に面白そうだけど。)
 浜田さんが「お、全国のやんごとなき方ファンを敵に回すか」と、ちゃんと面白い感じにしようとされてたけど、身投げ屋さんはすげえ普通だったなあ。。いや、「顔を見て決めます」って普通じゃないか。面白かったなあ。アタスはやんごとなき方に一度だけお会いしたことがありますが、すごい美人でしたよ。れんげの花みたいな人でしたね。喋ってみると、これが洗いざらしの木綿のような感触というか、河川敷で後走りに金麦!とか言いそうなお方でしたね。

 やんごとなき方ファンのアタスとしては、やんごとなき方が「身投げ屋さんとセックスしたい」と言えばもう、そうだ!そうだ!と思ってしまうし。アタスがアケビなんちゃらとかに全然興味なくても、やんごとなき方が「アケビなんちゃら最高、まゆゆ最高」と言えば、最高だ!最高だ!と思ってしまうんだよな。その時だけは。そうしとくと、やっぱ楽しいから。アタスはやんごとなき方ファンのだからね。楽しくやんごとなき方の放送を聴くためなら、その時だけアケビなんちゃらのことを最高だと思うくらい、べつに簡単なことだ。
 いや、それまではアケビなんちゃらとかどうでもよかったけど、やんごとなき方が「アケビアケビ」言うのを聞いてからは、アケビってなんだろうな、ってちゃんと考えるようになったし。ちゃんと進歩したと思う。




 昨日に続き、2chっぽい言葉のことについて書きます。某掲示板って書くと、読みづらいのと、もともと無駄にカサのある作文がよけいかさばるので、今日は簡潔に"2ch"って書きます。

 むかしから2chとの向き合い方というのを考えてはみるけれど、どうもモヤモヤした感じ。好きか嫌いかは分からないけど、やはり自分もあった方がいいとは思う。ないと少しは困る。実況、芸スポも含めて、サッカー関連の板が読めないと、サッカーを観ていてもなんだか物足りない。人権、民俗、丘板で知った話のおかげで見えた風景は数知れない。
 そもそも2chの中のことについて、門外漢のアタスがあーだこーだ言うのはおかしい。2chの外の、ねとらじとかブログ、ツイッターで出会う2ch的な言葉や言説、ものの考え方みたいなことに関して、考えさせられることが多い。もちろん、ただの批判(否定的な)とかではなく。
 「ツイッターでやれ」とか「ブログでやれ」という2ch的物言いがあるが。どういう人がそう書いてるのか、そう思っているのか分からないけど、2chの中の人が「2chの外」と規定するツイッターだのブログにおいても、なにか2ch的言葉、言説、思考のようなものに出会うことが多くて戸惑う。「チラ裏」という2ch的タームがある。そう言う人は、例えば本当にチラシの裏に書く時は、どんな言葉を使うのだろう。

 時代と一緒に、言葉も考え方も変わって当然だし「いつでも言葉はこうあるべき」などという考えの方が危険と、アタスの好きな作家がいつも書いている。アタスもそう思う。昨日の「2chの言葉の叙情性が云々」という見方は、単純すぎるとも思う。
 2chで飛び交う言葉は、(そもそも言葉が記号であることを越えて)記号的だなと思う。そこで交わされる感情も、記号化されてるような印象さえある。いちいち立ち止まって考えているような場所ではないような気もする。どんな感情も、ぬるぽ/ガッみたいな意味を求めてはいけないやり取りで、記号化、均質化されて、往来し流通しているように見える。そうやって高速で記号のような感情をやりとりすることで、はじめて芽生える(自分には)未知の感情や、開ける景色があるんだろう。アタスにはまだ分からないけれど、そんなふうに想像する。



 昨日「2chの言葉は叙情性に欠ける」とか「むしろ叙事的な言葉と考えたらどうか」とか、乱暴に書いたけど、意味の分からないスレ立てとか、細々と見ていると、とても叙情的に思える時がある。よい例がうまく浮かばないのだけど、たとえば「ヤクザだけどクッキー焼いたよ」とか、そういうやつ。ああいうのはすごいなあと思う。何気ない簡潔な言葉の中に、無限の情感を汲み取れる。叙情とか、詩性と呼ぶしかないような、なにか得体の知れないものを感じる。
 「ヤクザだけどクッキー焼いたよ」というスレ立てに出会った時の、自分が得た感情をうまく表現することが出来ない。バカだな、とか、すげえな、とか。一言で言えない面妖な気分。これを「幽玄」と言ってもいいし、はっきり言って「もののあはれ」とは、こういうことではないかとも思う。

 そうやって外から2chを観察していても、ごくわずかな部分部分しか見ることは出来ないんだから、自分の認識は当てにならない。こういう不純な動機で腰の引けたままいくら外から眺めてみても、見えてくるものは僅かだと思う。もっと純粋に、単純に、どっぷり浸かって無心で楽しまないと、「ヤクザだけどクッキー焼いたよ」的な「もののあはれ」であふれかえる場所には辿りつけないんだろうな。
 ただ、そうしてしまうと、もともと堕落してる自分が、今以上にいくらでも堕落していきそうでおっかない。そのむかし、浜田さんが「濁流感」という言葉を使っていたことを、ふと思いだす(別に2chを差した言葉ではないけれど)。濁流の中で品性や品格を保つ強い意志が果たして自分にあるのか。多分ない。どんな堕落でさえも赦し、受け入れうる場所が2chだと思うし(決して「堕落した場所」という意味ではないですよ)、またそういう場所だからこそ「ヤクザだけどクッキー焼いたよ」的な無限の叙情的瞬間/真空地帯も生まれるのだろうか、、などと想像する。。