えべっさんの多世界解釈


 伊東美咲が眼鏡とおさげ髪の昭和の女子高校生みたいな役で出てくるドラマを観る。設定にすごく無理があるんだけど、その違和感も演出の一部のような、そうじゃないような、、などという夢を観た。 
 ここ数日、長い夢ばかりみて目覚める。今朝は、鋼鉄の塔みたいなコンビニが出てきた。話のスジはあっという間に忘れてしまった。

 なにやら連日暑い。公園の真ん中で子連れのママが喧嘩したり、蜃気楼のような風景ばかり。
 ラジオは聴けたり聴けなかったり。。このまえ「聖水」の話をしていたらしい某タさんが、今度はうんこの話をしていた。そういえば風呂の排水溝で云々とか話していた頃を、ふと思い出す。め君の動画配信は、普通に生活してるねぎ氏の引きの絵が妙におかしかったなど。妄想会話はいろいろ想像をアレしてくれる、よい日記だなあと思うなど。
 jkさんの「ポールシフト牧」というつぶやきが心に残るなど。「ポール牧シフト」だと対ポール牧の守備陣形みたいだよなあ、などと、どうでもいいことばかり頭をよぎる。指パッチンのたびにシフトする世界を想像してみる。いや(jkさんと言えば)エヴェレットの多世界解釈のような、指パッチンのたびに層が増えていくような世界。エベッさんの多世界解釈。エヴェレットもよく分からないが、蛭子能収さんの闇も深い。http://itaishinja.com/archives/2702562.html (via某タさん) 独特のセックス観とか、関わった人が不幸になったりするアレとか、その後、あのへんの闇に光は当たったのだろうか。。
 むかし作ったタンブラのアカウントを思い出したので、それをあれこれアレしながら聴くのがちょっと楽しかった。ずっと触ってなかったけど、今はいろいろ見た目がアレできるんですね。。昔は簡単なアップローダ代わりに使ってたので、パスを忘れるたびにアカを作ってた記憶がある。それらを統合したいんだけど、、他のを思い出せない。。


 そういえば、このまえゾ先生のブログを読んでいて「『夏なんです』のカバーを聴いてみたいなあ」と思ってた数時間後にれんこん部で聴けてうれしかった。かっちょよかった。前作を含む他の曲も(れんこん部などで耳にするたび)まっすぐに真摯に歌われるゾ先生の声が印象的なのだけれど(「もんもん、もこもこ」も、まっすぐに、真摯だった)、唄が演奏と別のところでひらひらしてるような感じというか、演奏と遠いところ、ちがう部屋で歌っているように聴こえるのはなんでだろうと、ふと思う。「夏なんです」カバーは元気な感じなせいか、それほど気にならないんだけど、もっと静かで、なんだか難しそうな曲(解釈が?)で、顕著に感じる。歌詞、言葉が漏れなくはっきりと聴こえるふうな配慮? なんとなく、つるっとは聴き流せない感じ。ミックスのせい? コニス先生のアレなのだろうか。そういえば、飲み屋マキさんとか、夏キマリさんの唄も、いつもそんな感じに聴こえていたかも知れない。
 週末になると、ただ無闇に墓場で独り呆然としていた頃、頭の中で再生していたゾ先生のネコのアルバムのことを思い出す。今のゾ先生グループのアレンジに比べると、シンセやら何やら派手な感じでビヨビヨいってたけれど、それでもなおひっそりとしていた。あの特別な感触というか、当時は「死の匂い」などと書いてしまったアレは何だったんだろう。。思いや気分のようなものが音楽に結晶化したような、なにか鉱物や貝殻や骨、無機物のような静謐。バイオミネラリゼーションという言葉があるらしいが、あのネコのアルバムに感じたイメージはまさにそういうものだった。





その他、源ちゃんメモなど

    • 「かつて大家族が当たり前だったころは、家に病気の人や老人がいて、家族で世話をしていました。でも今では病院に入れたりして、弱者を身の回りから排除してしまいますよね。その結果、僕は不幸になったと思っているんです。なぜかというと、自分もいつか弱くなるのに、そのことを忘れてしまうから。だから自分が弱くなることに、排除されるんじゃないかという恐怖を覚えてしまう。その恐怖を防ぐのが子育てなんですね。 〜中略〜 そのおかげで、「人生とは小説とは恋愛とはこういうものね」とすぐにタカをくくって済まさなくなった。弱い人と付きあうと、ふだんは眠っている想像力を使うことになる。それによって、自分の中にある可能性が引き出されるんです。そして、可能性を十分に発揮して生きることが、幸せに生きるっていうことだと思うんですね。」 (子育てに関する高橋源一郎の言葉より http://www.cinra.net/special/vol42/3-b.php)
    • 瀬戸内寂聴だけが群像新人文学賞の選考で源一郎『すばらしい日本の戦争』を支持した件が気になる。「顰蹙文学カフェ」に寂聴との対談あり