10とか50とか15とか20とか。。


 だいぶ前から、ねとらじを聴かなくなってどるふぃんというのを立ち上げなくなった。そうなると、ほんとにねとらじを聴かなくなる。ついったーを始めてから、そっちの告知で、また、たまーに聴いたりするようになった。
 某タさんのラジオを聴く。貧乳好きという志向、嗜好は僕も理解できない。「あるべきところに、ないのがいい」などというレスも見かけたが、なんつうかそんなふうに書かれると哲学的だわね。しかし、あるならあった方がよいと思う。それが理由で好きになったり嫌いになったりはしない。だけど「あるなら、あったほうがよい」とは思う、、乳に関しては、、やはり、あるべきところにあったほうが、なんか、安心しませんかね?どうですかね。手の置き場として、というか、なんというか。。
 「不安定な写真をみて、なにか心が安らぐのは、今の僕の気分が不安定だからかなあ」などと書いた記憶がある。「あるべきところに、ないのがいい」という貧乳好きの考えも、ワタスが不安定を求めたりする気分に近い気もする。しかし、見ようとすればいつでも見れる写真作品と乳とを単純にアレすることは出来ない。そもそも乳を観たり触る機会自体が無かったり、不安定なのだから。そもそも出逢う機会が不安定な乳の、その形状にまでに不安定を求めるほど、ワタスは不安定、不完全志向ではない。。などと、しょうもないことを考える。
 浜田さんのテスト配信。サッカー観戦。どるふぃんを起動したおかげで、久々にjk氏のあさまん。算数シェルターさんのふつらじ。ただ空虚な朝に、かわいい声が染み込む。どういう理由で登録したのかもはや分からない放送をどるふぃんが引っ掛ける。やにわに大喜利とか始めたので、そっち系の人だろうか。これも久しぶりに大喜利phpを開いてみる。お題を観てもあまりにも何も思い浮かばない自分に愕然としつつ、すみやかにそっと閉じる。。



 言葉のふるさと、ということを考える。自分自身に故郷があるように、自分の言葉にも故郷がある。どうにもならない気分でツイッターでつぶやいた言葉を読み返し、あまりにも陳腐で情けなくなる。*1 のっぴきならなくなると、けっきょく言葉が小学校の国語の時間みたいなところに帰ってゆく。という昨日のアレ。そこでは当たり前のように、言葉の前に、心や内面というあやふやなものを想定する。

 その人の内にある言葉の(量や質の)限界が、その人の(知覚できる)世界の限界。世界を観て感じるということは、未分化で一塊の現象を、文節化して言葉に置き換えるということ。ソシュールやなんちゃらストローさん、記号論
 目の前のりんごを見て知覚する(自分の内の言葉に、移植する)。ワタスが10の言葉で感じるりんごが、ワタスの世界の限界。10の世界。
 優れた作家が100の言葉で感じるりんごを、50の言葉で書く。そうやって50の言葉で表現された「りんご」を読むと、50とはいかないまでも、15とか20のりんご、15とか20の世界というのを、そこでワタスも間接的に知覚できるということかしら。感覚が拡張される、ということ。

 10の言葉しか持たない自分が、知覚できるかなしみの限界は、所詮、10の世界のかなしみ。10のかなしみ。
 イヤダさんが50の言葉で書く。50とはいかないまでも、15とか20の世界を、そこでワタスは間接的に知覚することが出来る。だから多分感動する。
 jkさんが、無精髭のことを「黒い虹」とつぶやく。やはり10の言葉で世界を知覚する準備しかない私は、そこで感動する。「黒い虹」と表された無精髭(世界)は、自分にとって、15かもしれない、20かもしれない、もっとかもしれない。その言葉が、配信中の瞬間的なひらめきで生まれた、その現場に立ち会っている分、一瞬で言葉が押し広げる見たこともないような世界の展開、その風圧のようなものに圧倒される。
 何気ない一瞬のひらめきで提示された「無精髭を『黒い虹』と知覚させることで、新しく広がる世界」は、(時間をかけて考えられた言葉ではないぶん、よけい)ワタスに、15でも20でもなく、ほぼ∞のような錯覚を与える。

 はじめに言葉ありき。
 やはりワタスが、気持ちやら、心やら、気分やら、内面と考えるあやふやなものより先に、言葉はある。
 ワタスが自分の力で知覚できる世界は有限だけど、人の言葉を通して知覚できる世界はほぼ無限だと思う。。思いたい。。。

*1:「夕暮れの雨が色んなものをとかして流す。そして倒れそうな心だけが残る。車の音も、遠くの喧噪も、空の色も、ほこりのにおいも、昼間の熱も、あの人の言葉も、、僕の心を支えていたことに、ふと気づく。」とか、そういうやつ