天然レッスン

 よる。やんごとなき方のやんごとなき配信。めしを食っていて出遅れたので終わりの一時間ほど。「れんげの薫り」のくだりで罵倒で返さないあたり、前より何やらだいぶまろやかな感触。「背負うべき」を噛んで「背負うベコ」は、神がかってるなあと。「ネットとネット」だとか、意表をついて先生に気の利いた感じで返されると、なんだか急に恥ずかしいような、なんとも言えない甘酸っぱい気持ちになってしまうのはなぜだろう。何なんだろうこの気持ち。
 甘酸っぱいアレを珈琲で散らしつつ、見境がつかなくなったところでアホな事二三つぶやく。

 あさ。つぶやきによせて。
 自然に、天然に、と心がけてみても、それは自分の頭の中の「天然らしい天然」でしかなくて、いつだって不意に直面する本当の天然とは印象が乖離している。。本当の自然、本当の天然はきっとそんなに生易しいものじゃない。。それが傍目に如何に惨たらしかろうと、もっと力を抜いて、もっと油断して、駄洒落をつぶやいてみたら、何かに気づけるかもしれない。天然レッスン。
 ひたすらメモをする人がいる。レコードのクレジットだとかを。すげえなと思う。自分もこうして日々自分をメモしている。それらは何が違うんだろう。反省や観察がそこにあるかないか? でも、自分の反省や観察は、どうも強い意志に欠けるというか、本気ではないような、「反省してるふり」とか「観察してるふり」な気もするから、それはやはりレコードのクレジットをメモするのと、あまり変わりないのかなあ。
 ただひたすら,無心にクレジットをメモするというのは、逆に、「なにも、分かろうとしない」(分かろうとすればなんでも分かる、という奢りを捨てる)という意思を保つための(あるいは無心でいるための)精神修養みたいなアレがあるのかしら。。

 アタスは天然であるのに、つい天然ではないようなふりをしてしまう。こっちを「天然でない人」と認識して接してくれる人に対して、さも天然じゃない人のように振る舞ってしまう。もっと自分の天然と向き合ってみる必要がある。そうしないと、天然であるということも、天然ではないということも、どっちも理解できそうにない。ツイッターの使い道が未だに分からないので、あれは天然レッスンとでもしたらよいか。

 そうめんさんの「雨のペヤング」という一節が心に残る。それだけで詩であり叙情だと思う。昨日の、あのそぼふる雨の冷気に沸き上がるペヤングの湯気の情景、情感が一瞬で脳裏に展開する。「雨」という言葉を使いながらも、放射能やら時事のアレとは全く無縁な境地から、雨の情緒だけをすくい取るような手管。言葉による雨の放射能汚染の除去とでもいおうか。。
 。。などと仰山に書いた後にふと思ったんだけど、蒸気を吐く熱した白い箱。。やはりペヤング原発の暗喩だったのだろうか。。