にせ音楽ファン手帳

 で、「やり方として、自分の感覚にフィットするか、しないか」という話になると、また昨日のオガーさんの「東京大放送」のアレまで話がアレしてしまうのだけれど、昨夜もスカイプにて3〜4時間ほど一方的にインタヴューさせていただいた。弾き語りの件から、過去の自作音源など聴かせていただく。「虹色のカクテルグラス」だの「笑顔マイフレンド」「100%の勇気」「野球選手が夢だった」などと題された、感触としては往年のNDW(ジャーマンニューウェーヴ)が近似と思しきストレンジミュージックの出来は、想像以上に素敵だった(自分の好みより、むしろクールすぎるくらい)。
 ちなみに「野球選手が夢だった」は特にKANへのオマージュソングというワケではないらしい。のんきに「KANの言語感覚って独特ですよね」などと言われるも、「こういう曲にこういうタイトルをつけてるあなたの感覚の方がアレだよ。。」としか思えなかったが、、そうは思いつつも、我ながら特に思い入れもないのに「野球選手が夢だった」と言われてすぐに「KANですか」とつるっと出てきてしまうあたり、確かに独特というか何かがあるのかもしれない。
 調子に乗って、「オガーさん流のシティポップスやら、オガーさん流の歌謡AORやら、オガーさん流のアイドルポップスみたいなコンセプトで一発やってみてください。そういうのが聴きたい」などと、わがままを言わせてもらうと、「それは面白そうだから、是非やってみましょう」などと、禁欲的なまでにストレンジミュージックに徹した十数年(二十年?)のキャリアをあっさりアレするような納得のされ方をされる。いかんせん長時間のインタヴューに疲れて、もうどうでもいいからさっさと終わらせたいというアレだったのかも知れないけれど、本当に是非そういうのをやっていただきたいなあ。すごく聴いてみたい。

 鼻歌でつるっと出てくるようなのをやって欲しいと思う。
「ポップスとそれ以外。何が境界なのか」と改めて考えて、ふと「鼻歌で出てくるか、出てこないか」みたいな分け方を想像してみる。
「鼻歌で出てくるか、出てこないか」という区別は、音楽の価値みたいなこととはほとんど無関係なような気もするけれど、それしても、ポップであることに拘らないアーティストは、鼻歌としてリスナーそれぞれの内で、それぞれの形で「再・再生」される音楽の素敵さ、美しさを、なぜ簡単に拒否し諦めてしまうのだろうなあ。。