にせ音楽ファン手帳

うたいましょう ひとりで ひとりで うたってあげましょう
お父さんの好きだった歌を 誰にも聴こえないように
お父さんの好きな歌って なんだったんだろうな わかんないな
お父さんの歌なんて 聴いたことないもんね

うたいましょう ひとりで ひとりで 歌いたいわ
みんなでハミングするなんて そんなのは うその歌
ひとりだけでうたう歌ってあるんです
誰にもわからないけれど ひとりだけで 小さな声でうたう歌が

うたいましょう ひとりで ひとりで うたってあげましょう
お父さんの好きだった歌を 小さな声で お父さんだけに*1




 いろいろ見境がつかなくなったところで、また朝から写経してみる。
 歌うことについて歌ってる歌。自らの則る形式(ポップス)についての自己言及。さしづめメタ・ポップス、メタ歌謡とでも呼んだらいいのだろうか。メタ歌謡にも古今東西、直球っぽいのやら変化球っぽいのやら、いろいろとあると思いますが、富岡先生のこれは直接的で、豪速球で、そして痛烈だなあと思う。
 そして先生は「みんなでハミングするなんて、そんなのは嘘の歌」とまでおっしゃる。ひとりだけでうたう歌ってなんだろうな。ワタスはどんな歌をひとりで歌うのかな。たまたまここを読まれている知らないどこかのあなたは、どんな歌をひとりで歌いますか? (動画・左)




 (中)「歌いましょうひとりで」に続けて投稿したエリエッチ・ネグレイロスによる「ラビアンローズ」の不安定なカバー。この(2ndだったかな)アルバムはたしか冒頭の不協和音ボッサみたいなのが好きで、ある時期、朝の起きぬけに死にそうな顔をしてよく聴いていた記憶があるんだけど、分かりやすいかなあと思ってこっちのカバー曲を投稿した(天然じゃないじゃん)。「薔薇色の人生」をこんな不穏な感じにカバーしちゃうのも、なにかそこはかとなくメタなたたずまいを感じてしまうのだけれど。。単純に1stのブチ切れ加減と比較して、そんなふうに感じているだけなのかも知れない。。 それにしても、思わず発音してみたくなる、なんかすげえ名前。エリエッチネグレイロス。

 (右)長谷直美の「テレビスタジオ」という唄(前半部分)。これも自身にとっての「歌うということ」について、ただひたすらに容赦なく歌っております。コルゲン鈴木の繰り出す必要以上にアッパーな演奏と火花を散らす、無常観すら漂わす長谷先生の破滅的な歌唱*2によって、アイドルポップスにおける数多のメタ歌謡の中でも、なにか特別な輝きを放っているように感じます。
 「すべてを賭けているのよ、私は歌い手だから」との盛り上がりに至っては、もうなにか得体の知れない感動さえもよおします。(矛盾するようですが)ただの机上の空論に終わらない、これぞ耳で聴き体で感じるメタフィジックではないのかと。聴き進むにつれ、無意識にぐんぐんと感覚は冴え(冴えるというか、感覚の拡張?)、曲に対する集中力が増していく自分を感じるのです。そして聴き終えると、いつもきまって「なんなんだこれは!」と肯定とも否定ともつかない、やり場のない感情の昂りを覚えるのです。そしてここには、ワタスが「ポップ」「ポップであること」を考えるうえでの重要な手がかりやキーを孕んでいるような気配さえあるのです。*3


 むかし、ワタスがよく(長谷直美とはまったく関係のない)AORなどのレコードを買っていたあるお店の店主に、「非の打ちようがないやつより、なんか突っ込みたくなるようなタイプの(AOR)曲がきっと好きなんですね」と、指摘されたことがある。その時はくだけた調子の雑談だったこともあり、「わあ、確かにそうっすねえ」などと笑って「冗談」みたいな気分で受けとめていたけれど、、今ふりかえると、あれはもっとなにか根本的、原理的な指摘だったのかも知れない。それとも「きわめて原理的な冗談」と受け取るべきだったのかも知れない。
 あれから時を経た今、改めて自分の集中力の働きを気にしながら長谷直美を聴いていると、、直美の顔の向こうで、あの時の店主の顔が、また静かに微笑んだような気がした。

*1:「歌いましょうひとりで」 富岡多恵子

*2:すてきな壊れかた。「音楽的音痴」とでも申しましょうか

*3:聴くほどに(音楽の理論や演奏の技術、知識を持たないはずの)私を含めた一般大衆の感覚を澄ませ、拡張し、集中力を増幅させる類いのポップス、またはポップスの中のそういう要素。