まひ


 すい。
 あれからずっと東北関東大震災(という名前にアレしたみたいですね)のニュースに釘付けのまま暮らす。なにかしようとしても、どうしてもテレビやネットであれこれ観てしまう。観ているあいだ、頭の中はからっぽ。そして、ものすごく感覚を麻痺させられているという自覚がある。震災は現実に起きていることだし、原発関連がアレすれば当然自分の身にもアレしてくる問題なんだけど、、画面が伝えてくる非現実な光景(被災地の状況、上下動をくり返す各地のガイガーカウンターの値)の連発に、どうにも感覚がついていかない。
 それについて、あれやこれや書いてみるも、書く→あくる日、読みかえすと全然ワケが分からないので書き直す→半日後、読みかえすと全然ワケが分からないので書き直す→数時間後、読みかえすと全然ワケが分からないので書き直す→投稿しようとする数分後には、もうワケが分からないので書き直す、、、などというくり返し。書く→後悔、混乱の感覚がだんだん短くなってくるのがアレ。いよいよ本格的にクルクルパー。じゃあ、もう無理に書くなと思うんだけど、やはり後でふりかえって考え直したいから最後に収納するコースで。
 ACのCMの連発が気持ち悪い。どんよりしつつ、寝る間際。ふと、ダイアンアーバスが自殺する直前に撮ったハロウィンで仮装する知的障害者の写真が観たくなってあれこれするうち、そういえばアーバスの写真を使ったジャケのレコードって、なんかウチになかったかしら、、などとがさごそしてしまう。そういうのをまとめて紹介してるサイトでもあれば便利なのになあ。

 もく。
 帰り道、ものすごく冷える。ビル風がめちゃくちゃに吹いてきて、いろいろ吹っ飛ばされそうになる。風を避けるように中古屋に吸い込まれる。50〜100円の邦盤七吋を数枚手にしたところでふと我に返り、戻してどうにか手ぶらで帰宅。小さな感覚麻痺への欲望にどうにか打ち勝ったけれど、、どうせ帰宅してもなんかしら他の方法でアレを麻痺させるだけ。
 そういえばズングルにいただいた「おしっこなう」というコメントで、あれこれ検索していてやんごとなき方の放送用掲示板に辿り着き、およそ一年前の放送でズングルを紹介していてくれたことに今頃気づく。申し訳ないです。。でもなぜだか、不思議となつかしいとかいう感覚が湧いてこない。もうずっと前から、自分の頭の中の一角にやんごとなき方がしっかり住まわれているからなのかな。旧家なんかの庭先の小っさい鳥居とかお稲荷さん的な感じで。



 ひどいとか、惨いとは思うんだけど、、そう感じている自分はなんなのか、その気持ちは本当なのか、本当に何が起きているのか自分みたいなもんが果たして理解できているのか、そう自問自答しているうちにも、画面の向こうのひどい出来事はどんどん進行し、つぎつぎ展開していく。追いつかない。諦めて、口を開けてただ眺めるだけ。
 救助隊が瓦礫の山で遺体を発見すると、収容が間に合わないので(生存者発見を優先するため)、赤い布をつけた竿を目印としてさしていた。その目印をたよりに、ひとつひとつ、淡々と確認し身内を捜す老婆。観ていて、なんともいえない気分になる。画面は淡々と出来事を伝えてくる、そして、こうして起きている状況を説明してみることは出来るけど、その救助隊や老婆の感情は自分にはとても理解がおよばない。だからやはり「お悔やみ申し上げます」などと、自分みたいなもんが気軽に書いたらダメな気がする。。 
 そんなふうに、頭はからっぽ、かつ感覚が麻痺したまま、被災地の映像をただ眺めていると、あれこれロクでもないことが頭をよぎる、、以前に書いた「ゴミだらけの浜辺」や、漢のロマン水上コテージ的な。 理屈より先に抗しがたく魅きつけられる感覚だからこそ、それこそ自分の本音のような気もするんだけど、、人様に言わせれば麻痺した感覚だとか、鈍感野郎ということになるんだろう。「美しい」ってなんだろう。感覚を痙攣させたり麻痺させるようなものから、いかに美しいもの/美しくないものと取捨し受け入れればいいのか。麻痺しているからこそ取捨できないのではないか。ただワタスがクルクルパーで意志薄弱で集中力がないからすぐ思考停止することを「麻痺」とかいって濁してるだけか。