にせ音楽ファン手帳



 よる。
 レコ部という音楽配信を聴いていた。聴いているうちに、ああ、アレってどんなだっけ?とか、そういえば、アレが聴きたい、だとか、、いろいろ芋づる式に思い出が蘇ってくるんだけど、レコードも壊れたPCの中の音源も聴けないので、ネット上の音源を漁ってみたり、気づくと時間が経っていた。なんだか楽しかった。夢中でいるつかのま、悲しいこと煩わしいこと、あれやこれやの反省から解放された。
 ただ聴いて、ゆったり楽しむことが出来ないのは、たぶん私が貧乏性だから。どうしても、わさわさしてしまう。 

 自分があれこれレコードを買って聴いてた頃。やたらと買ったり聴いたり、むやみに喜んだり落胆したり、あの馬鹿馬鹿しいような性急なサイクルは、純粋な音楽への好奇心とか探究心(というのは大げさか。関心ぐらいか)だったのだろうか? 仕事のストレスやら悲しさとか嫌なことを忘れさせるために、、自分の感覚をただ麻痺させていただけなのだろうか。
 純粋に楽しくて聴いていたんじゃなくて、ただ嫌なことを忘れるために聴いていたんだろうか。。
 嫌なことを忘れるために音楽を聴くっていうのは、音楽を楽しんでる、、と言っていいのかな。
 ダメなのかな。 

 そのあと、むかしの別の日記を読み返した。
 たまに見ても、気持ち悪くなって(ほとんどが、仕事から解放された変なテンションと眠気の中で書いてるから、もともと気持ち悪い作文がさらに気持ち悪くなるのだろう)すぐ閉じてしまうのだけど、昨日は違った。あのころは純粋に楽しくて聴いていたのか、ただ嫌なことを忘れるために聴いていたのか、いったい自分は、どうだったんだっけ、、という方に意識があったので、気持ち悪いところは眼をつぶって読めた。長いあいだ読み返した。

 いま。仕事のストレスやらなんやらから解放されみて、なにを聴きたいと思うか。
 かりに当時、嫌なことを忘れるために聴いていたとしたら、今は聴く理由はなくなったのか。
 なにも聴かなくていいのか。
 じっさい(ほぼ)聴いていない。
 残酷なほど整然とした結果だ。



 貧乏性。(宮本さんの文章を読んで思ったことの備忘)
 音楽の理論だの楽器演奏のこと、歴史や背景を知らないから、一枚のレコードを通して聴く集中力が続かない。でも聴き続けたい。それで、とっかえひっかえする。せっせと次から次へ求める。ぜんぜん余裕がない。だから趣味が拡散するのか。
 自分が(能動的鑑賞のつもりで)家でDJみたいに、とっかえひっかえしていたのは、曲を取捨再構成して自分勝手なアルバムを作ることで、アーティストが提示してくる「アルバム」を通して聴けない自分の集中力のなさを、補おうとか、ごまかそうとか、見ないようにしていたのか。

 ほとんどの場合、一枚のレコードを通して集中して聴くのが堪え難かった。聴いているそばから、世の中にはたくさんの知らないレコードがあることを考えてしまう。
 音楽をもっと楽しみたいと思う人は、一枚のレコードを聴く集中力を支える音楽の理論や楽器演奏のこと、歴史や背景を知りたくなるのか。
 自分にはそこまでする気がなかった。もっと知りたいという気持ちはあっても、自分のそれは半端であり、所詮かっこうつけや、やせ我慢で、なにか本気ではない気がした。
 ここが、音楽ファンと、にせ音楽ファンの分水嶺なのだろうか。わからない。それとも単純に、自分で「自分は音楽を楽しんでいる」と言いきれる人、覚悟がある人が音楽ファンで、自信がなかったり迷う人が、にせ音楽ファンなのか。

 あれこれ沢山聴いてみるのと、少しを集中して聴くこと。
 お金と時間のあるなしで、ただ楽しみ方が変わるだけなのか。もっと根本的に違うのか。
 そもそも集中すべき「少し」は、沢山聴いてみて気づくのではないか? 別問題か?

 「集中して聴くに値する一枚」
 「色んな音楽をたくさん聴いてこそ、この一枚の価値に気づく」
 どちらもレコードの売り文句にはなる。自分の気持ちだと思っていたものは本当に自分の気持ちか。または、それを疑いすぎるあまり、何かへのただの反動を、自分の本心と勘違いしていなかったか。

 カフカは「一つの回るコマを完全に理解できたら、世界を理解できる」と、狂人の口を借りて言わせた。
 なんで聴くのか。知りたいからではない。楽しければいい。しかしよく考えると、楽しんでるのかも分からない。
 悲しいことを忘れたいだけなら、ただの麻酔。

音楽を、愛すのは、苦しい。音楽を、愛している人を、見ると、苦しそうに、見える。愛には、麻酔効果があって、苦しくても気付かないように、なっている。  無知な自分を自覚すること、そして、これからも無知でい続けること。そうやって、音楽と、自由で、いよう。  音楽がなくても生きていける。  気まぐれで、明日から、死ぬまで、音楽を聴かない、可能性だってある。  わたしが、そういう気分の時だけ、音楽が、ある。  そんくらいの、気分でいよう。  「自分は、音楽が、好き」  そう思うことが、自由を奪う、第一歩だ。  愛の麻酔の、始まりなんだ。



こんなことをしらふで書いてるんだから、酒なしで酔えるエコノミックおめでた野郎呼ばわりされるのだ。