五分で分からない、にせ音楽ファン手帳



 昨日「メッセージソング」などと簡単に書いてしまったあと、自分にとって音楽の中の言葉ってなんなんだろうなと、ベッドの中で眠りにつくまであれこれ思いめぐらしていた。

 作り手の気持ちを知らない、100%聴き手である私の勝手な思い込みで、ぐるぐる考える。
 。。。*1


 「自分は、素直に音楽の言葉に感動したことがあるのか」と、ずっと自問してみたのだけど、、
 やっぱり、ないような気がするんです。
 この曲にこういうふうにこの言葉がのると、なんかすごい感じになるな!とか、この言葉の使い方が斬新だなあとか、風変わりだなあとか、聴き飽きたような言葉だけど、ここではずいぶん澄んで聴こえるなあとか、そういうのは頻繁に感じるけれど、それはなんだか、おまけというか、飾りでしかないような気がして。なにかが、違うような気がする。

 唄を聴いて気づいたら泣いていた、というような経験も人並みにはあるんだけれど、それは聴いている自分の状況や心境に因るとこが大きいのかなとも思う。場末の定食屋の有線で聴いたアイドルポップスがどーとか、秋晴れの日に横断歩道の誘導用にリアレンジされたなんとかを聴いてどうとか、(某書の一節みたいな)隣に駐車した車のカーステレオからふと流れてきたなんちゃらとか、そういうやつ。だいたいこちらが構える前、油断している隙にというパターンが多い気がする。その場合、音楽の言葉はどのくらい影響しているんだろう。気配やムードや記憶を呼び覚まされただけで、音楽の言葉に感動したっていうことでいいのかしら。。わからない。
 ヘッドフォンをして、真正面から向き合って音楽の言葉を追ってみて、泣いたという経験はないような気がする。やはり鈍感なのか。前述の「ありがたがり」やお勉強が足りないからなのか。



 たとえば中古屋で歌謡曲だのアイドルだの、それからシティポップスだのを後先考えず買ってきて聴いていた頃、最初は(一部の革新的なやつを除いて、ほとんどは)陳腐な歌詞だなあと思っていた気がする。慣れ親しんでからは、そういう歌詞にも慣れてしまい、しまいにはほとんど違和感を感じなくなっていた。陳腐なのではなく時には愛らしくさえ感じられる場合もあった。
 音楽を聴かなくなってしばらく経ち、当時とはぜんぜん違う気分でふりかえってみたり、ユーチューブにあげたものなどを聴き返して反省してみて、やっぱり基本的には陳腐だよなあとしみじみと思ったりした。「陳腐な歌詞」という書き方も微妙で、貶める気は全然ないし好きでも嫌いでもないんだけれど、正直ほかに丁度いい言葉が見つからない。。「凡庸」とか「平凡」も違うしなあ。。 言葉はとりあえず付けたい、聴いていて極力抵抗感を生まない範囲で。みたいな感じ。ポップスなんだから、きっとそれが極めて正しいのだと思うけれど。
 それでも未だに自分の中で、「陳腐だからこそ良い」と思えるなにかがあるような、前向きな予感はするんだけれど、そんな気配があるだけで、それを捉えてうまく言葉にすることができない。



 たとえば以前にも貼った新島弥生の「恋はあせらず」なんかは、言葉が陳腐だからこそ良いと強く感じる。
 このクソかっこいい曲と演奏に対する、拙い唄と言葉の強烈な落差がなければ、きっとこの曲は私に「脆く儚い夢」だの虚無や無常観といった形而上的なものまで想起させてはくれなかったはずだ。(知らねえよ)




 前のリンクが切れていたので削除されてしまったか、、と残念に思っていたら、なんと歌っている動画がアップされていた。CD音源のものより、かっこよさは3割減だけど、、儚さは強烈に増している気がする。。。 儚いんだけどこの破壊力。可憐でゆるやかな自己解体。「テュッテュル」が生じゃないのが実に残念です。



 夜。
 便所で本を読んでいて、ある一節にひっかかった。
 高橋源一郎のエッセイで、ドナルド・バーセルミの手がけた児童書に触れながら、小説の中の挿絵の効果について述べている。
 「何故、挿絵が必要なのか。〜中略〜 もちろん、気を散らすためである。読書という行為はあまり集中してやるものではない、いやもっと正確に言うなら、どんなに集中しまいとしてもどうしても集中してしまうのが読書の欠点なのである。」

 集中しなければ読書ではないと当たり前に思っていた自分的には、昔からどうも気になっていた一節で、たぶん「読み手の鑑賞中の集中/散漫のコントロールも、文章表現の可能性の一部。読書という行為そのものの再解釈」みたいなことだと想像するんだけど、ひょっとして自分にとって、音楽のなかの陳腐な言葉は、ここでいう小説の挿絵みたいな立場になっているのではないかしら、、などと、ふと思った。一定の緊張状態で楽曲への集中を維持させるような歌詞とは別に、ある種の陳腐な歌詞には聴き手の集中力に絶妙なゆらぎを与えるような効果があるんじゃないかなと。




 曽我町子の「謎の女B」(こっちも、ジャケ付きのが削除されてる、、と思ったら、代替物があった。)
 こちらは陳腐さを保ちつつ、かつ、かなり先鋭的というか革新的な歌詞だとは思うんだけど、歌詞が与える集中/散漫のゆらぎということを考えていて、なぜか最初に思い浮かんだので。
 これを最初に聴いた時に感じた、もやもやした情緒の由来がなんなのか、ずっと分からなかった。一発で「すごい」とは思ったんだけど、何がどうすごいのかは分からなかった。じっと耳を澄ましてみても、ずっと雲をつかまされるような感じ。楽曲云々は置いとくとして、先の便所での思いつきから、ここでは、言葉が聴き手の鑑賞中の集中/散漫に独特なゆらぎを与え、聴き手の立ち位置、視点(聴点?)を一カ所に留まらせないような、なにか宙吊り状態のような状況が起きているように感じられた。

 いや、なんかもうゆらぎとか生易しいものではなくなってるような気もする。。曲と言葉(叙述の方法?)が異様な相互作用を示しつつ、聴いてるこっちを掴んで引きずり回し、そこいらに叩き付けられるような迫力を感じる。それからこの曲自体がどこか、今の人が昔の歌謡曲を面白がってるさまを、さらに外側から覗いて笑っているようなメタな雰囲気が漂っていたりするんだよなあ。。
 よく、おっさんとかが「今の歌謡曲は昔みたいにはちゃめちゃなパワーがない」とか言ってるのを聞いて、ふーんと思っていたけど、こういうのを聴くと、まあ実際そうなのかもなあ、、と思ったりする。

 便所でふと思ったことから謎の女を貼ったのは、なんか趣旨が違ったのかなあ。。
 話がどんどん長く、雑になっていくのでそろそろやめます。。書いている途中、新島さんの動画がひっかかったのが予定外でした。。

*1:自分は基本的に、この世にある歌は全部、作者が何か考えてようが何も考えてなかろうが、生まれた時から何かしらメッセージを勝手に持ってしまうんじゃないかなあと、ぼんやり感じていたような気がする。「全部にメッセージがある」っていうのは「全部にメッセージがない」ってことになる気もするんだけれど。 ―――漠然とそういう印象をもっていたせいなのか、なんなのか、世の中的にわざわざ「メッセージソング」と扱われているような唄が、どうにも胡散臭く感じられた。「この唄が生まれた(歌われた)背景にはこういう歴史、時代の要請があって、そういうのを踏まえたうえで鑑賞してみましょう。はい、とても素晴らしいですね」みたいなやつ。ありがたがる人やお勉強したい人へのCDの売り文句みたいに聞こえてしまって、ほっといてくれみたいな。 ―――聴くからにゲージュツしてるようなのを、ある頃から、すすんで聴かなくなったのも関係しているだろうか。聴いていて無意識に緊張を強いられたり、構えている自分をふと自覚させられたりして、それがウソくさくてなんだか嫌になってしまった。なにも分かったり感じとれはしないような気がした。「構えている」のは、分からないくせに分かっているふりをする自分の体勢だと感じた。 ―――そういうのの反動なのか分からないけれど、気がつくと陳腐(と世の中的にはされているよう)な言葉がちりばめられた歌謡曲だのポップスだのを「楽しいなあ」と聴いていた。この「楽しいなあ」というのも何なのか分からないけど、「前よりも少しは素直に音楽を楽しめているんじゃないか」みたいな、あまり根拠のない安心感だったような気もする。