どんかん

 帰省した実家にて。父親が痴呆のようになり、訳の分からないことを言い出して喧嘩になる。自分は仕事があるので早く下宿に戻らなくてはならず、いらいらして焦る。キッチンで弟が直径7〜80cmくらいありそうな巨大な梨をむいて薄く切っている。食べてみると水っぽくてあまり味がしない。シャワーを浴びにいくと、なぜか浴室で父親が車を洗っている。浴室ぎりぎりに収まった青緑色をしたワンボックスのような車に、ホースで水をかけている。そこでまた言い争いになる。
 シャワーを浴びながら窓の外をみると、隣の家が無くなっていて(低層アパートに建て変わっていて)視界がひらけている。学校に登校する大勢の小学生が歩いているのを見下ろす。気づくと自分も小学生たちと一緒に通りを歩いている。急に雷が落ち、遠くの小学生の一団が吹き飛ぶ。(光と音がして、少ししてから地面が爆発する。) また落雷し、小学生たちが吹き飛ぶ。どんどん雷が近づいてくる気がする。数発目、次はどこに落ちるだろうと考えている最中に、目の前が真っ白になり、景色がかすみながら下の方に沈んでいくように見え、意識が遠くなっていった。自分のところに落ちた、と思いながら眼が覚めた。体は横向きで、胸の前で組んでいた両拳のあいだから汗が二すじ流れた。また雷が落ちる夢をみた。

 べつの明け方。
 どこかの知らない外人たちがカタコトの日本語をしゃべる動画(動画のブログみたいなやつ)がいろいろあるのを知り、ずっとそういうのを観ていた。面白いし聴いていて心地よい。流暢なのより、カタコトなやつの方がよい。何がいいのか分からない。いったい何がいいんだろうなと、観ながら考えていた。
 そういえばむかし、外人がカタコトの日本語で歌うようなレコードが好きであれこれ買っていた。アルバムでは珍しい気がするが、シングル一発みたいな人の泡沫カタコトレコードは無数に見かけた気がする。あれも何がよかったのか分からない。何がよいのか一向にわからないものの、聴いていて面白かったり心地よかったので、見かけると必ず試聴して、少しでも引っかかるやつは買うようにしていた。いろいろ聴いているうちに何がいいのか分かるかも、、まあ分からなくてもまあいいんだけども、、という気持ちだった。
 なんとなく、そこにある楽しみは、子供レコード(キッズもの)やら音痴レコード、老人レコード愛好に近い感覚なのかなと思っていた。共通するのは、崩れてる美しさというか、、退廃美というか、儚さだとか、無常観、切なさ(刹那さ)、なにかが壊れる瞬間の閃きというか。。
 外人のカタコト日本語動画も、最初は「そういう感覚で楽しいのかしら」と思ってたんだけど、、いろいろ観ていくうち、壊れているというより、ここには、スレてない古風な日本語のかけらというか、爺婆の日本語なんかよりもさらに図抜けてクラシカルな日本語の音とか響きの片鱗があって、そういうのに自分が無意識に反応しているのかな?とも感じた。実際、外人の変な日本語って、文法は壊れてるんだけど、喋ろうとしてるのは教科書みたいな日本語なんですよね。自分らが日常的に使う日本語って相当変形してる(そして不断に変化し続けてる)し、空気や水みたいな存在感だから、いざ立ち止まって「日本語の響きやら音がどうの」と意識出来ないというか。逆に音やら響きやらをいちいち意識して(気になって)しまうようでは、同時代の言葉として日常的に使えないのだろうけども。
 小さい頃、学校の国語の授業で「日本語は美しい」だのなんだの、さんざんやられたので、まあそうなんだろうなということで、ひとまずテストや先生の前では「にほんごはうつくしい」と答えるようにしていたけれど、実感としてはさっぱりだった。だいぶおっさんになってから、外人の変な日本語経由で、なんとなくそういうのの端っこに触れられたような気がする私は、やはりはっきり言って鈍感なのだと思う。